日記を書かない理由を考えた

 あれこれ前置きをしてどう結論づけたかの導入は放棄して、気づいたことだけを書くと、

私は日常での出来事を過小評価して「出来事のうちに入らない」とほぼ無意識のうちに自分の生活の記憶から除外している。

日記を書こうとしても何も思いつかないのはこれだ。

次にもうひとつある。

「書いてて面白くないと気乗りがしない」。

たとえば今日、杉並公会堂で、杉並オラトリオ合唱団、トラエッタ「スターバトマーテル」モーツァルトの「レクイエム(レヴィン版)」の公演を見てきたとする。というか見てきた。

それを淡々と事実を述べて出来事日記にしても何も面白くない。なんか面白おかしく、いや面白くなくてもいいけれど、書くにあたって所感があるはずだ、と思ってしまうと、もう何も書く気がしない。

何をどうして苦心して日記をつけなくちゃいけないんだ。

 

日記を書かない理由として一番大きいのは「日記を書かない理由」が用意されてもないのにすぐ出てくるところなんだろうなと書いてて思ったのでこの話は終わりにします。

 

杉並オラトリオ合唱団の公演は前にバッハのマタイ受難曲のを聴いたことがあるんですが、マタイの時のほうが良かったような気がします。単にマタイではオケが大所帯で少年合唱団も加わっていて音数が多かったからそう思うのかもしれないし、単にモーツァルトよりバッハのほうが好みとか、そんなことなのかもしれない。

モーツァルトがレクイエムを書いていた頃にバッハの平均律クラヴィーアの研究をしてバロックに向き合っていたというのがあって、尚且つ、それを踏まえてレヴィンが編曲したからか、バッハを懐古するような古典的なレクイエムだった。そうです。受け売りはよくない。その背景があると今日のレクイエムも良かったなと思えてくる。私は知ったかぶりの権威主義者として徳を積んでいるんだろうか。いやだ!そんな恥ずかしいことはしたくない!あたし白痴になる!ピクシーズさいこー!ピクシーズのファンに怒られそう。

 

トラエッタのスターバトマーテルは初めて聴きました。へー、こんなのもあるんだと印象に残ったので調べていたら想像以上にマイナーだった。ロッシーニの重厚さよりもトラエッタの…なんというんだろう、これも「古典的」と表現する以外になにか言葉はないんだろうか。杓子定規ではないけど確かさを保ちつつメリハリがある。そんな感じ。軽くはないけど軽やか。

 

脳が恋愛に直結してるせいでコンサートやライブに行くたびに誰々さんを誘おうとか思ってしまうんだけど、その誰々さんが最近は頭の中にいる理想的なAIなので一人で自己完結してしまうのがつらい。理想的な人は理想的な感想しか述べてくれないから発展性が無くておしゃべりに華が咲かない。円滑さの欠片もない恋愛したい。

恋に恋するお年頃でも乙女でもないのに人恋しさが募ってよくない。

 

久しぶりにブログを更新しようと、つらつらと思い浮かぶことを書きなぐっていたら、ほとんどTwitter構文めいたものになっていってしまうあたり、本当にTwitterで思考する生命になってしまった。それなのに暫くTwitterしてなかったというのはどうなんだ。死んでたんだろうか。死んでました。

 

できれば毎日すこし何かを書いてブログを更新する習慣をつけていきたい。つけます!ボケ予防のために!

ボケ防止のために毎日ブログを更新するという習慣をボケているために忘れてしまうのは、とても悲しいことだし、これも人間の業なのかな、と思うんだけど、そもそもブログを更新するのも業に近いので、どっちでもいいし気楽にいきたいね。

たぶんブログは更新しない。