隣人

 簡易で散漫な日記、人と話したこと、考えたことの覚書。
 
 人と遊ぶ、普段からよく遊ぶ友達をつくる、そういった友達がいる、というのは、それを成立させるための条件が幾つもあって、だから一人の友達と一週間ほぼ毎日仕事上がりに遊ぶみたいなのは難しいよね、何人かの友達に分散して、それぞれの日に暇で空いてる人を呼ばないとそういうことはできないよね、という話をした。
 遊ぶためには時間とお金、体力気力、そして遊ぶ相手との仲の良さ、遊ぶ場所と地域が通いやすいかどうか、が絡んできて、だから仕事に関していえば、拘束時間が短く、給与がそこそこ良くて、体力気力を消耗しすぎない、仕事上がりに遊ぶだけの余裕がある程度の、そんな激務じゃなくて疲れない仕事に双方が勤めていると好ましい。この時点でかなりの好条件を望んでるんですよ。現代でそんなゆったりした暮らしをしてる高等遊民そんな居ないんだよ、難しいよ、というのがひとつ。稼ぎが少なくて時間も無くて毎日くたびれて家帰って寝るだけ、土日ですらお金使うような遊び方してない、そういう生活スタイルの人のほうが多いんだから高望みだよね、と。
 次に友人、ないし友人になる前の、そこまで親しくない知人と仲良くなる方法。どうしたって最初のコンタクトの段階では人と話が合わないのが普通だと思う。稀に最初から気が合って、そのままずっと遊んでる、ということもあるけど、それもやはりレアケース。どうやって、出会った人たちの中で、親しく遊ぶ仲になる人を見つけ出すか、また親しく遊ぶ仲になれそうな人と出会うか。また、出会ったあとに、どのように親交を深めていくか。
 相手によって、どんなコミュニケーションの仕方が好みか、集団の中、ロケーション、その人の気分や状態、自分と相手の経緯、趣味嗜好、人間関係の築き方、それぞれに合わせて、適切な一手を打ち続けて、すぐ打ち解けるなんて、そういうのは土台無茶なことを言ってるし、そんな簡単にスムーズに人と仲良くなったりはしないんですよ。本来は。本当にそこもレアケースが存在してて、出会ってすぐに十年来の友人みたいになっちゃうこともある。お互いの親和性が高いとか、互いに歩み寄り方が似てるとか、他にも好条件が重なるとそうなる。でも普通はそうじゃないから、人と仲良くなるときはどうしたって焦らずに段階を少しずつ踏んでいく、自分からだけじゃなく、相手にも踏ませていくのが大事。
 相手のアクション/リアクションを引き出す、相手を能動的にさせる、ための、「自分に対しての動機を生み出す力」が必要だったり、あると助かるかなあと思う。それは人望だったり魅力だったり、そういう言葉で語られるもので。マイナスの動機も含んでるから、たとえば執拗な嫌がらせとか、ストーカー被害とか、そういうのも含めて、自分に対して人が何かしらの行動を積極的に行うような要素、を多く持つ人、人からよく話しかけられる、誘われる、好かれる、嫌われる、が多岐に渡って多量である人は、それだけの苦労もあるから、功罪あるだろうけれど。
 
 信頼って蓄積なんですよ。積み立てられる。毎月、毎日の掛ける額に応じて保障や満期の額も大きくなる。人に対して大きく信頼を積んでおくとそれだけの見返り、もっと良い言葉で言うならば、しっかりした関係を築ける。でも、偶にこっちが積立のつもりで掛けてた信頼や恩義を掛け捨て扱いにして、まったく蓄積しない人が居て、そういう人は早い段階で、そうであることに気付いておいたほうが良かったりする。人に対して強い影響力を持っていて、信頼関係の築き方さえも左右して人を変えられるなら、そういう人に対して、ちょっと恩着せがましくて御節介で、恐怖すら感じるくらいの人格改造や価値観の変容を促して、信頼を蓄積する人に変える例もあるけど、そこまで面倒を見る義理のある人ってそう多くない。自分と親しくする人、どうしても信頼関係が必要である人、に対してでさえ、そんな働きかけ方ってそうそうできるものではない。あと普段は人からの信頼を蓄積しているのに、特定の人物に対してだけ掛け捨てにしたり、すべてを無かったとすることもあるし、そういう人、関係は発生、存在しうる。すごい人格者のように見える人でも誰に対しても同じように親しいわけじゃない。どこかで、特別な誰かに対してだけ、すさまじい対応をすることはあって。
 
 人間はみんな意思疎通に異常を来した化け物で、どっか狂ってるところがあって、そして逆も然り、どんな異常なコミュニケーションを取る人にも、どこかしら一貫性や規則、筋道だった理屈があって、何に基づいて行動しているか、が違うだけ、と一元化して考えることができる。あくまで考えることができるだけで、一元化したり還元したりするのは思考を整理して現実を棄却して、物事を記号化するための手段にすぎないから、そこにあるのは結論ではなく途中式のための演算補助。
 思考様式というのは常に結論ではなく過程を楽にするためのものだから。結論はいつも最後に現実が決める。
 
 人柄、人となり、コミュニケーション、遊ぶ、ということ自体が、その全てが「遊び」にも「意思疎通」にも入っていて、だから遊び相手を得る、仲良くなる、遊ぶ、というのは、コミュニケーションだったり自他の人柄の把握で、遊ぶ、わかる、仲良くなる、遊ぶ、わからなくなる、疎遠になる、遊ぶ、わかる、仲良くなる、あそぶ→わかる→あそぶ→わかる、を延々とぐるぐる繰り返すサイクルになっている。遊ぶ、と表現したけど、一緒に働いたり共同作業をするのも含めて、そう呼んでいいかなと思う。
 
 人と生活するってことは、全部わけわかんないくらい負荷のかかる大変な重労働で、そして大変な重労働は全部めっちゃ楽しかったり苦しかったりするコミュニケーションで、そんな七面倒臭い意思の疎通の繰り返しは遊びに繋がっていく。だからそういう面倒くさいの捨て去って閉じこもるのは楽だし、実際コミュニケーションに対して人間が割いてるリソースって膨大だから、そこを割かないようにすることで驚くほどのリソースを確保して労力を一つの物事に集中することができる。だから何も無理に苦手なことや無駄なことする必要は無いんですよ。ただ自分が欲しいものが、何であるのか、のところにコミュニケーションが関わってきて、その技量が仕事や遊びの質を、自分の充実感を左右するなら、上達しといて損はないし、上手くなればなるほど簡単で楽しくなっていく。自分のやりたいことに必要なものを準備するのは何するにも大事、という当たり前の話で、ベンチプレス100kg持ちあげたいなら筋肉要るし、良い写真が撮りたかったらカメラと撮り方の技術要るし、そこの準備が出来てないまま無理すると危なかったり、がっかりしたりする。
 
 気持ちって大事じゃないなって、よく感じる。疎かにしていい、というわけじゃなく。人間に心とか精神とか無いんですよ。あるのはただ身体と、身体の内臓のひとつである脳に活動電位があって、本当にそれだけで。人間の気分を大きく支配しているのってむしろ肝臓や胃腸の調子だったり、栄養が足りているかどうかが大きくて、身体が健康であった場合、ストレスだったりコミュニケーションの不全だったり、そういったことへの対応も比較的スムーズだし、ダメージ受けにくいし、なにより体力に余裕があれば、ある程度マシな振る舞いになる。脳や心臓や脊髄の器質的な問題で、性格や行動が大きく決まることもあるけど、そういったケースへはそれぞれ適切な対応がある。現状そういったケースへ社会が対応できているか、というと全く進んでいないし最悪の状況に陥っている現場が多いのは今後の課題。
 すべてを一括で語ることなんかできないから何を言っても取りこぼしが多い。大事なのって、その場に居る人たちが、それぞれの、その場と関係者、当事者をよくよく観察して敬意を払って行動することで、だから何もかもが、あなたの生活する、あなたの目と手の届く範囲に委ねられていますよ、あなたの触れていくもの全て、触れることが叶うもの全てに、あなたは責任(責任って言葉だと何かが違う。意義?)を持っています、と誰か脳内FAX一斉送信でもして焼き付けてほしい。そんなの来たって何も変わんないし動けないけどさ。私だって多分いつも通り生きてくだろう。少しくらいはなにか違う一手を打ってみたい。
 ちょっとだけ変わったらいいよね。