潜在的トランスジェンダー、文化盗用、環境と自由意志の話

 性同一性は性的指向を決定しない。また、性的指向から性同一性を推測することはできない。

それがどういうことなのか、幾つかのパターンを提示する。

例1、性自認(性同一性)が女性であり、身体の性が女性で、性的指向が女性である人の場合。この人は同性愛者であるという自覚を持つだろうし、周囲からもそう認識されるだろう。

例2、性自認が女性であり、身体の性が女性で、性的指向が男性である人の場合。この人は異性愛者として自覚し、認識される。

例3、性自認が男性であり、身体の性が女性で、性的指向が女性である人の場合。この人の自覚はどうなるのだろう?自分は男性であり、性的指向は女性だ、として異性愛者として自覚する可能性。それと同様に、自分の身体は女性であり、性的指向は女性であることから、同性愛者として自覚する可能性もある。周囲からの認識はどうだろう?服装、手術や注射によって外見がどちらの性に見えるか、を元にして判断される場合と、経緯を知って認識を改める場合がある。そのどちらでも同性愛者/異性愛者として認識されうる。

例4、性自認が男性であり、身体の性が女性で、性的指向が男性である人の場合。この人の自覚はどうなるのか。自分は男性で、性的指向は男性だから同性愛者だと思うことも、身体は女性で性的指向は男性だから異性愛者だと思うこともあるはずだ。周囲からの認識も、例3のようにやはり、外見上の性別から判断され、また事情や経緯を知ってから認識が変わりうるパターンだろう。

 

例4について、もう一度書こう。身体は女性で、心は男性だ。性的指向は男性である。この人が女性的外見をしていた場合、異性愛者として扱われることは多いだろう。また、身体は男性で、心は女性であり、性的指向は女性である人が男性的外見だった場合も、同じように周囲からは異性愛者として認識され扱われる。

 

ここまでに、本人の自覚と、周囲からの認識の話を並列したのは、それが一致しなかった場合、本人の主張が周囲に受け容れられないケースの問題について書くためである。その話に移ろう。

 

異性愛、同性愛は、社会では一般的に身体の性に基づいて判断されてきた。自分の身体の性と、相手の身体の性が異なれば異性愛、同じならば同性愛として。これを、身体の性ではなく、心の性、性同一性(性自認)に基づいて判断することに対して、社会の認知度は著しく低い。

 

例4のように、性自認が生まれもった身体の性と違う・性的指向性自認の性と一致する人が、自分は同性愛者である、性同一性が身体と異なると主張したとき、これらの問題について疎い人(性自認性的指向はセットではないと知らない人)は、概ね「あなたは普通の異性愛者である」と反応する。身体的に異性である人を愛することは、普通の異性愛であり、あなたは性自認を取り違えているだけだと指摘する。(この傾向は、思春期の子供のカミングアウトに対して親が拒絶を示す際などに強い。)

 

例4の人が、自分は同性愛者であり、トランスジェンダーである、と主張したとき、例3の人から、否定され、場合によっては、すさまじい怒りと嫌悪を向けられることがある。今回の記事の主題はここである。

 

身体の性と性自認が違い、身体の性と性的指向が同性である人のうち、「異性愛か同性愛かを身体の性によって判断する人たち」にとって、トランスジェンダーであり同性愛者である人とは、まぎれもなく自分たちのことであり、それ以外の他者では決してない。彼らにとって異性愛者である人たちが、トランスジェンダーであり同性愛者であると主張することは、彼らに大きな混乱を招くのだ。

彼らはこう反応する。「あなたはトランスジェンダーではないし、同性愛者でもない」。そして、こう続けられる。「異性愛者である人によって、私たちトランスジェンダーであり同性愛者である者の尊厳はいたずらにアクセサリー化されている。文化が盗用されている」

 

近年、同性愛とトランスジェンダーを題材にした映画が多く制作されている。しかし、その殆どにおいて、同性愛者やトランスジェンダーを演じるのは、同性愛者やトランスジェンダーではなく、異性愛者の俳優たちである。これに対し、同性愛者やトランスジェンダーから「当事者ではない人たちによって文化が盗用されている」との声が挙がっている。

 

文化の盗用(Cultural appropriation)とは何か?について説明を挟む。

 

この言葉には幾つかの側面がある。

1、文化に対して理解のないまま表面的に真似をする

2、マジョリティがマイノリティの文化を借用する

3、敬意の欠けた模倣

4、文化の所有者ではない者が、その文化を用いることへの批判

 

歴史的に、世界の数多くの植民地では同化政策によって現地の文化は追いやられ、消滅した。これに対する反動として、原住民の文化を保護しようとする運動が強まり、マイノリティの文化をマイノリティの財産として意識するようになる。その結果として、エスノセントリズム(自民族の文化を基準とし大切にする一方、他民族の文化を否定し、排他する主義。同化政策のような文化侵略に対抗するため生まれたものだが、同化政策と同じことをマイノリティ側から行う形である)が広がっていった。

文化盗用、という考え方は常にエスノセントリズム的である。文化は固定的なものであり所有者である集団が存在する、という考え方の元、その文化の帰属者でない者がその文化を行うことを、攻撃の意図をもって否定するとき、この「文化の盗用」という言葉は使われる。

黒人音楽を生み出したのは黒人だが、黒人音楽を商業的に成功させたのは白人のミュージシャンたちだった。文化の創り手でありながら、差別によって音楽業界から締め出され、白人に利権を簒奪されてきた黒人にとって、黒人音楽を白人が演奏する姿は苦々しいものに映る。これは音楽に限らず、ドレッドヘアーやアフロなどの髪型を黒人以外の人種がすることも否定される。

しかし、黒人音楽や、ドレッドヘアーなどは、黒人だけの固有の財産なのだろうか?他民族の文化を取り入れること、行うことは否定されるべきなのだろうか?これは黒人の文化に限らない。ネイティブ・アメリカンの民族衣装を着た白人、和服を着た白人に対しても文化盗用が叫ばれる。文化は違う民族の間で交流され、変化してきたはずだ。なぜ文化に「所有者」が定められてしまうのだろう?

 

人は生まれる場所を選べない。自分の両親の人種によって自分の生まれもった人種が決まり、生まれついての性別が身体の性として決まる。自らの意志によって何かを選ぶ前に、環境は決定されていて、その中で育ち、人格は形成されていく。もしもこの世界が決定論的に、「先に決まっていたことによって後のことも全て決まっている」のならば、そこに自由意志はない。人は与えられた環境、与えられた出自、与えられた性、与えられた身体によって決められた道を、決められたように進んでいくことになる。

 

 しかしそうではないはずだ。我々は生まれた時からお互いに影響を受けながら生きている。成長する過程で幾つもの変化を経験し、自分はどうしたいのか、どうするのかを選べるようになっていく。生まれもった性別に規定されず、成長して気付いた性自認にも規定されず、もしかすると自らの性的指向にさえ規定されず、人を好きになる。

同性愛は同性愛者だけの固有の文化ではないし、トランスジェンダーの有り様に定型はない。黒人音楽が黒人だけのものでないように、白人音楽も、雅楽も、特定の所有者しか使えないものではない。異性愛もそうだ。「文化の盗用」はいつも、パブリックである、と見做されたものに対しては叫ばれない。同性愛者であることを公言している俳優が、映画の中で異性愛者を演じたとき、「異性愛者でない者が異性愛という文化を盗用している」とは言われない。異性愛はパブリックであり普通のものであり誰にでも解放されているので盗用には当たらず、白人の文化はマジョリティのものなので黒人や黄色人種が用いても盗用に当たらない、と無意識に判断している傲慢さが、文化の盗用を叫ぶ。黒人が差別に苦しみ「白人に生まれたかった」と口にしたとき、それは批判されない。白人が黒人に憧れ「黒人に生まれたかった」と口にしたとき、往々にしてそれは批判されてしまう。だが、選べなかった環境によって決定されたものに対して、自分の意志で何かを望むことが、どうして人に否定できるだろう。

 

 例1から例4までの話に戻る。心の性を元にして異性愛/同性愛を判断するならば、性的指向の相手の性別も、やはり心の性を考えなければならない。すると、組み合わせは途端に増えていく。自分の性自認が身体の性と違うことに無自覚な場合、相手もそうであるかもしれない場合、その愛の形が異性愛なのか同性愛なのか、はたまた両性愛全性愛や無性愛なのか、どこまでもわからなくなっていく。人は誰しもが潜在的トランスジェンダーである。我々は潜在的トランスジェンダーであり、同性愛者であり、異性愛者であり、あるいは、あなたがもっと新しいものを見つける。

こまごまとした幾つかのこと

 長い間心身が優れなかったんだけど、ここ数日でかなり回復してきた。なにかしら楽しみな予定を作ると俄然元気になるので、好きなバンド(LOSTAGE)のライブのチケットを買ったり、映画観に行く約束したり、という方策で急速チャージを完了。元気になりすぎて調子に乗ってホラー映画を立て続けに三本観たら普通に気持ち悪くなった。ごはん食べながらシャイニング観たの初めてなんだけど、ごはんと合わなさすぎる

 

 よくFPSで一緒にチーム組む韓国人のフレンドが最近「おたんこなす」という言葉をどこかで覚えてきたらしくて、私に向かって散々「おたんこなす!」と言いまくってくる。でも言われてるタイミング的に「nice」とか「well play」の文脈っぽいから意味知らないんじゃないかと思う。実際に私がAIM下手で文句言われてる可能性もあるから訂正していいのかどうか分からない。あと訂正の仕方がわからない。

 

 映画「レディ・プレイヤー1」を観た。面白すぎて脳が過熱して不眠症になって徹夜して感想や考察を書き続けて推敲して、またレディ・プレイヤー1のこと考えて、としてるうちに眠気がどんどん消え去っていって、を繰り返してて若干健康を害するくらい面白かった。これ最近は「ブレードランナー2049」観たときにも同じ状態になって、なんというのかな、私自身の人生経験にすごく似通うところを見出して「あっ、これ、わかる」ってなったり「この映画を読み解く鍵が俺の人生の中にある」みたいな感覚になったりして興奮が収まらない感じになって、今も興奮してるので文章がぐちゃぐちゃです。いつもぐちゃぐちゃだった。ネタバレしたくないし恥ずかしいしで、暫くはとめどなく溢れてくる考えと言葉を全部自分の内に秘めておく。うまく言えないんだけど、「個」が「個」であることや「現在」が「現在」であることの絶対性みたいなのが強すぎて、一回性の体験のもつ大事なものを担保するために、未見の人にマジで何も伝えたくない。レディ・プレイヤー1ブレードランナー2049に関しては公開から二年以上経ってから考えまとめてちゃんと書きたい。

 

 映画「トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン」が隠れた名作らしくてめっちゃ観たい。なかなか売ってないしレンタルもない。

 

 アニメ「メガロボクス」を観た。おもしれー。EDのNakamuraEmi「かかってこいよ」って曲が好き。

 

 TwitterShing02の「緑黄色人種」を勧められて購入。気に入って最近よく聴いてる。

 

 トム・ジョーンズ「拳闘士の休息」を読み返している。落伍者の返り咲きとか敗者復活戦とか社会不適合者のヤケクソ行動が本当に好きで(それは俺自身が落伍者であり復活する者であり社会のフレームを蹴っ飛ばし続ける者であることが手伝って)、「拳闘士の休息」は何度読んでも飽きない。

 

 Mnogoznaalを聴き始めた。

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 コミ共和国のヒップホップ。トラックが暗くて好き

必殺技

「一緒に考えた必殺技、まだ覚えてる?」
 詩織が懐かしむように話す。季節は冬。場所は新宿の居酒屋の片隅。私たちの通っていた中高一貫の女子校の、初めての小規模な同窓会。その席で、詩織は饒舌に私を困らせる。
「必殺技?なにそれ」
「えー。たくさん作ったじゃん。私より広瀬のほうがマジだったじゃん」
詩織がテーブルの上を見回す。詩織は私の下の名前を呼んだことがない。
「料理もうだいたい片付いちゃったね。誰かなんか頼む?」
周囲にいる元級友たちがそれを受けて騒ぎながら店員を呼ぶ。詩織と級友たちが注文している間、私は黙り込んでいる。手帳を取り出して余白に書き込む。”必殺技”。なんだか笑えてくる。手帳を鞄にしまい込む。注文を終えた詩織が戻ってくる。
「広瀬は今彼氏いんの?」
「ううん。いない」
「お。フリーいいね」
「気ままだよ。おすすめ。詩織は?」
「私?私はノット・ア・フリーです」
「お~?聞き捨てならんな~」
そんなことを話しながら私は全然別のことを考えている。数年前のこと。中学生の頃、高校生の頃、詩織と一緒に考えていた幾つもの設定を。

 

 中学に入って初めて親にケータイを持たされた。特にケータイが欲しいと頼んだ記憶は無い。それは同学年のみんなも同じらしかった。家から離れた学校へ電車通学する娘に、心配だから、と親が渡してきたケータイは、すぐに私たちのおもちゃになる。まず最初に同じクラスのみんなと連絡先を交換しあう。その時のケータイは、赤外線通信でデータを送り会う仕様だった。みんなそれぞれ持っているケータイの機種によって通信できる場所が違うので、「私のケータイどこに赤外線ついてんの?」「ここじゃね?この黒いカバーのとこ」と探すところから連絡先の交換は始まる。クラスのみんなの名前を覚えるのと一緒に、みんなのケータイのどこに赤外線通信部があるのかを覚えた。そして他愛ないメールを頻繁に送り合うようになった。その時に詩織と出会った。
 詩織は変な子だった。入学してすぐに教室にマンガを持ってきていたし、休み時間に椅子じゃなく机の上に座るし、お弁当を持参するか学食で昼食を取るようにと生活指導を受けているのに、学校の近くのコンビニで買ったサンドイッチやざるそばをいつも持ち込んでいた。最初は、そんな子は詩織だけだったのに、次第にみんなが詩織の真似をし始めた。詩織しか読んでいなかった週刊少年ジャンプは、中学1年生の夏休み前になると、クラスの半分くらいが読むようになっていた。私も同じだった。

 昼休み、私が詩織の席の横にしゃがみ込んで、詩織が貸してくれたマンガを読んでいると、ふいにケータイが鳴った。見ると、詩織からのメールが届いている。
「真横にいるじゃん?なんでメール?」
私は詩織を見上げる。教室の一番左。一番後ろ。窓側。カーテンにもたれかかるようにして椅子にもたれている詩織が、ケータイから顔を上げて私を見る。
「まだ広瀬って私のプロフ見てないよね?と思って。メールでリンク送った」
「プロフ?」
メールの中の青色に変色しているURLを見る。カーソルキーを下に押して、OKを押す。ページが開く。
「ページの途中にゲスブ……ゲストブックってのあるから入ってよ。自由に書いてって。掲示板みたいなやつね」
「ふーん?」
そこには今私が読んでいた漫画のキャラのファン(みんなたぶん同じクラスの誰かなんだろうというのはなんとなく分かるペンネームだった)や、ジャニーズのファンがひしめきあっていた。みんなが思い思いの書き込みをしていた。
「へえ。詩織が管理人?してんの?」
「まあね。ゲスブ、三つに別れてるから」
どうやら、ゲストブックには、漫画の話専用、アイドルや芸能人の話専用、と、もうひとつ、なんの話をしているのか分からない掲示板があるようだった。
「この三つめの、オリ、って書いてあんのなに?」
オリキャラ
 詩織が短くそう言ったときにチャイムが鳴った。五時限目の授業が始まるまでの間、私は、オリキャラの話専用のゲストブック、というのを、なんだか分からないままに眺めていた。

 秋になった。私と詩織は頻繁にオリキャラを作ったり、オリキャラの設定を足したりして遊んでいた。詩織のプロフのゲストブックに、夏休みの間、毎日のように通い詰めていた私は、すっかりオリキャラというものを理解した。
 自分で作るオリジナルのキャラクター。姿形、年齢、どんな過去があって、どんな性格で……。詩織が考えたオリキャラの設定を元に、私が絵を描いたり、私が考えたオリキャラの小説を詩織が書いたりして、私たちは過ごした。特に詩織が好きなのは異能バトル系のキャラだった。超能力や魔法が使えたり妖怪の血を引いていたりする、少年漫画みたいなキャラクターが詩織は大好きだった。当然のように彼らオリキャラには必殺技があった。詩織がオリキャラを考える。私がオリキャラに似合う必殺技を考える。オリキャラのライバルになるキャラを私が作り出す。詩織がライバルの必殺技を考える。
「実は幽真と風斗は兄弟なんだよね、それで必殺技も似てて……」
詩織が深夜にゲストブックに書き込む。まだゲストブックに書いてまとめる前の、オリキャラの設定相談なんかをするときには互いにメールをした。メールは何通も続いた。Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:…………

 

「必殺技、覚えてる?ほら広瀬の考えたやつ……太陽の光を集めて~、焼く」
「あはは、覚えてない~」
笑いながら私と詩織は同窓会の幹事に三千円を渡す。本当は全部覚えてる。でもそれを言い出せなかった。覚えてると言うのが恥ずかしかった。詩織は私の下の名前を覚えているのだろうか?ふと気になる。一度も下の名前で呼ばれたことがない。聞いてみようか。私の下の名前、覚えてる?と。それも言い出せなかった。
「広瀬~今度映画行こうぜ~」
「いいよ。なに観るの?」
「マーベルのやつ。もしくはDC。いつでもどっちかやってるし」
「今はアメコミ好きなんだ?」
「彼氏がアメコミすげー持ってんだよね」
「そうなんだ」
なぜだか寂しくなった。いま、詩織の隣に座って漫画を読んでいるのは、私じゃなくて、その彼氏なんだ。

 

 JR新宿駅まで一緒に歩いて、そこで解散した。改札を通って手を振りながら消えていく詩織を見送ったあと、私は西武新宿駅へと歩き出し、途中で思いついて大型書店に立ち寄る。店員にたずねる。
「アメコミの棚ってどこにありますか?」
ございます、少々おまちください、と店員が案内してくれるのを待つ間、私はほとんど泣きそうだった。

最近観た映画の感想

・「ゴッホ 最期の手紙」

 動く油絵のアニメーション映画。細かいことは公式サイトで。

ゴッホ~最期の手紙~

 これ映像表現が売りで内容はハートフルものだと思って観に行ったら結構はらはらしてスリルあって……びっくりした。てっきり美術モノだしアート系の映画であって娯楽性は薄いだろう、と思ってたんですよ。娯楽性の方向でしっかり面白かった。

 主人公の性格が頼もしいというか……アドベンチャーゲームめいた高揚感がある。

 

・「オール・アイズ・オン・ミー」

 ヒップホップMC、2PACの生涯を追う伝記映画。彼の幼少期から始まり、25歳で何者かに射殺されるまでの物語。

 チャラい!!トゥパックがチャラい!!硬派でダーティな曲の歌詞しか私が把握してなかったせいで私の中に合ったトゥパック像は「真面目で武闘派」なヒップホップの先鋒だったのが、実際の彼の売れ線だった曲をバンバン流す、実際に彼が調子のってる部分を描写していく、この映画によって「本当のトゥパックは常に真面目で良い子ぶってるわけじゃなくてスターダム駆け抜けるハッピーな青年の顔もあるよ」とイメージがガラッと変わった。良い意味で救いを感じる。

 

・「オリエント急行殺人事件

 古典なのに原作一度も読んだことなかったおかげで新鮮な気持ちで観れた。面白かったのでもっと早く原作読むか旧いほうの映画を観とけばよかった。

 

・「ブレードランナー2049」

 何も知らずに観ることが体験性の担保に大切な映画なのでネタバレを控える。とても良かった。

 

・「ベイビー・ドライバー

 鮮烈な演出~!(エドガー・ライト作品に対していつも同じことを言ってる気がする)

 青春~!

 語彙~!

 

・「ナミヤ雑貨店の奇蹟

  ダークホース。入りの長回しで商店街を抜けていくカットが良かった。ハートフルSFミステリ。

 

・「ガールズ&パンツァー最終章 第一話」

 ガルパンはキャラの特徴や仕草を説明せずに細かく描写するところが良い。実写映画で例えるなら整列するシーンの前にキャスト一人一人に個別の演技指導をして「画一的にならないように個別のダラけ感を出して」と釘差した後みたいな。立ち居振る舞いに抜け感がある。

 

・「祈りの幕が下りる時

 新参者シリーズ最終章。原作読んだとき気にならなかったのに映画で観ると「あの人とばっちりで死んでない?」みたいなのが際立つのはなぜ。

 

・「キングスマン ゴールデンサークル」

 アルファジェルによる蘇生って聖杯的なモチーフでもあるのかなと思った。正しき選択をしたものが真に蘇生後の生に辿り着き、誤ったものは死ぬ=聖杯による蘇生が叶わなくなる、という。キングスマンのコードネームが円卓の騎士だし。

 前作の教会でのアクションシーンも、今作の最後のアクションシーンもそうなんだけど、キングスマンシリーズは「作中最もホットなアクションが、倫理的/心情的なブレーキで観客が完全にノることができない」構造をわざと作り出してる。痛快なアクションじゃなくて、悲しみや憂いや恐怖を帯びたアクションになっている。そこが良いところだと私は思う。暴力的、過激なようでいて、その表現への抵抗や嫌悪を抱いてもらうことを大事にしている。

 

・「バーフバリ 王の凱旋」

 面白かった。前評判が良過ぎたので過度な期待をして劇場へ足を運んだせいか、「普通の映画じゃん」と鑑賞中に思ってしまったが、冷静になってみると普通ではない。王道ではある。王の映画だし。

 冒険活劇、英雄譚、青春、戦争、アクション、歌、踊り、と色々なものをギュッと詰め込んだお得パックみたいになってて、そのお得感が前作を超えている。足りないのはスリル、感情の機微、苦しみや痛みなど。なんというか全体的にマイルドかつスムーズで、ぎこちない部分が全然ない。エンドロールも1秒しかない。エンドロールが1秒しかない映画ってすごいな。

 

・「勝手にふるえてろ

 痛快コメディ、として銘打たれてるし、前半は確かにそうなんですよ。笑いそうになる表現が次々にやってくる。それが途中で豹変して映画の様相が変わる。

 映画「フェーム」での現実の延長線上のミュージカルというものがあって。何かというと、それは現実の路上で、本当に、急に音楽かけてダンスを始めてミュージカルをやってしまう、というもので、当然ながら渋滞を巻き起こしてしまって人から怒られて乱闘騒ぎになったりして幕を閉じる、というものなんです。現実の生活の中で本当に踊り出してしまう、現実がそれを邪魔扱いして退けていく。"現実を現実が剥がしていく"。そういう描写だからこそ、「フェーム」の登場人物たちのフラストレーションの解放と、また解放しきれない青春の葛藤をにじませるものになっている。

 これ最近ある映画でオマージュされたんですよね。「ラ・ラ・ランド」です。ララランドの場合は、現実の路上ではなくて、主人公の空想上でのミュージカルであるために、誰からもそれを邪魔扱いされることはないし、いってしまえば”現実が虚構を剥がさない”。はなから、作中世界での整合性を取る必要が無い設定で虚構のミュージカルをやっている。

 で、「勝手にふるえてろ」の話に戻ります。この作品だと、"虚構で虚構を剥がしてく"んですよ。これがすごい。虚構は虚構であって現実ではなかったことを表現するために、虚構を用いてくる。現実の風景の中に"浮いた"、"痛い"主人公が歩いていって、浮いたまま種明かしをしてくる。演出バリバリすごかったんですよ。マジですごかった。制作班はこれ新規に独創的に思いついたんだろうか。それとも何かしらの作品からのインスピレーションを受けて作ったんだろうか。気になって仕方ない。とても面白かった。

 

 

最後に架空の映画のトレーラーを見つけたので紹介します。これ好き。

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「ポプテピピック」のアニメ化、ではなくて、「ポプテピピックのコミュニケーションツールとしての側面」のアニメ化なのではないか

 ポプテピピックのアニメを観た。幾つか考えることができたので書き起こす。

 

 このアニメは「再放送」と称して、10分間放送したのと同じ内容を直後に再び繰り返す、という形をとっている。この「再放送」が、実は1回目と2回目では完全に同じ内容ではなくて、少しずつ変化がある、というのが、ポプテピピックというアニメを特殊な位置付けにしている。

 どういうことか、というと、まず1回目の放送で、視聴者にポプテピピックのアニメのテンプレートを提示し、2回目の放送でそこに変化を加える、という形式を取ることで、「2回目の放送を観ている際の視聴者に、どこに変化があるのかを身構えさせる」という視聴体験を作り上げているのだ。それは大喜利のようなものでもあるし、ラジオの読者投稿企画のようでもある。ある一定の変化しない枠を用意して、その中での振る舞いを細かく変化させることの面白さ、を作り上げている。

 

 ひとつ例を出す。その昔、深夜の馬鹿力というラジオ番組で、ラジオ青春アニメ劇場『燃えろ!光』という企画があった。音声ドラマ作品の連続企画で、とある高校を舞台に、主人公の光くんを伊集院光が演じ、ヒロインのかおりを声優の野村真弓さんが演じるというものである。第1話の内容はオーソドックスで、光くんが野球部をやめたあと、かおりにそれを咎められる中で、実は肘を痛めているためもう投げられないから辞めたと告白し、それを内緒にしてくれよなと念を押したあと、気持ちの整理がついて、新しく他の部活を始めることを決意する、という流れになる。

 さてここで問題が発生する。なんと番組には予算がなく、声優さんへ払うギャラが足りないため、第2話以降の収録はできないというのだ。大変だ!

 そこでこんな解決策が出てくる。「声優さんに新録を頼めないなら、第1話のかおりの音声だけ繰り返し第2話以降も流せばいいじゃないか」

 

 ?

 

 というわけで『燃えろ!光』のヒロインかおりは、毎話毎話、まったく同じセリフしか話さないキャラになってしまったのだ。そうなると、伊集院光演じる光くんのセリフしか変えることができない。つまり、光くんのセリフのネタを読者からのオハガキとして募集して、それが上手いこと前話の内容から次の話へと繋がるように作ることになった。

 当然ながら伊集院光もリスナーも、かおりのセリフが変わらないことを前提として番組制作とハガキ投稿を続けていく。あるテンプレートの中での限られた変化でドラマを、面白さを創り出していった。

 

 ポプテピピックの話に戻る。『燃えろ!光』で作られたリスナーへの視聴体験と、ポプテピピックのアニメで作られた視聴者への視聴体験は、かなり構造が似ているんじゃないか?まず雛形になる1回目の放送を提示し、2回目でその中に少しずつ変化を加えていく形であることを了解させ、その上での視聴する姿勢を設けさせる。ハガキ投稿によって内容に干渉できこそしないものの、ポプテピピックは「テンプレートと、その改変」を主軸に置いている。

 

 時は昔、ポプテピピックの原作者、大川ぶくぶ氏が出版した東方projectの同人誌にて描いた1コマの「ほあようごぁいまーしゅ!」というセリフがあった。これがインターネット上で話題になり、長いことその1コマの画像を貼るのがおはようの挨拶の代わりのようになったり、2chでは毎日のようにAA化されたほあようごぁいまーしゅが貼られ、Twitterでは今でいうLINEスタンプの代わりのような使われ方をした時期があった。バズったものが定型句のように機能する現象である。この定型句化したほあようごぁいまーしゅ!は、徐々に画像やAAをコラージュされて変化し、セリフを変化させたもの、セリフをそのままにキャラを変えたもの、画風を真似て新しく描かれたもの、と改変されていった。

 そして時は経ち、ポプテピピックのLINEスタンプが公式から発売される。その売れ行きと普及率は凄まじく、常にLINEスタンプストアランキングにポプテピピックが顔を覗かせる状態が続いた。ポプテピピックスタンプは使いやすいものとして一定数の人々に受容された。ほあようごぁいまーしゅ!と同じく、ポプテピピックという漫画はバズり、定型句として使われ、LINEスタンプになることで名実共に「コミュニケーションツール化」したのである。

 

 何か似ていないだろうか?コミュニケーションツールとしてのポプテピピックと、アニメ化されたポプテピピックは、同じような構造と性質をしている。

 

 ポプテピピックのアニメは、テンプレートを示し、それを自ら「再放送」にてコラージュする。声優が変わり、内容が変わり、少しずつの変化を楽しむものとしての2回目の放送がある。ほあようごぁいまーしゅ!がテンプレートとなり、人々にコラージュされ、少しずつ変化していったように。ポプテピピックの漫画の連載が始まり、ある程度認知されるようになった際にもやはり、ほあよう(略)と似た現象が起きた。バズり、定型句になり、コラージュされていったのだ。ポプテピピックはLINEスタンプが発売される以前、既にLINEスタンプのようにコミュニケーションツールになっていた。

 

 このような受容のされ方、つまり、ポプテピピックという作品だけでなく、その周辺状況も踏まえての映像作品化のように私は思う。当記事のタイトルを繰り返す。

ポプテピピック」のアニメ化ではなくて、「ポプテピピックのコミュニケーションツールとしての側面」のアニメ化なのではないか。

 

 未だ放送途中であるため、答えではなく問いの段階にとどまるものとする。

 

少女終末旅行の最終話の一話前の話をしたい

 2018年1月12日。気温はマイナス3℃。これは日記かもしれないし、誰かに宛てた手紙かもしれない。今日はweb漫画として連載されていた「少女終末旅行」の最終話の更新日だった。最終話(第42話)の1話前、第41話にて爆発的に膨れ上がるモノローグの熱量が凄まじかったので、いったい最終話はどうなってしまうのだろう?と期待と不安のようなものを抱えて読み始めた。さて、最終話の感想は一旦端に置いて、第41話の話をしたい。その41話でのモノローグの熱量が凄いと書いたけれど、実際には熱量と呼ぶより、もっと厳密な表現があるように私は思う。書きながらその疑団を拭えなくなったので話を巻き戻す。

 

 少女終末旅行の第41話のモノローグが帯びているもの、それは喩えるならば、よく使われる表現にするならば、ロウソクが燃え尽きる前に一瞬強く輝くこと、「灯滅せんとして光を増す」のような、最期の瞬きのような熱だった。私は何かを考えるときに無数に例え話を作り始めるのを趣味にしているので幾つか追加して持ちだしてみよう。ちなみに無数の例え話を次々と持ち出す理由は何かというと、より細かく正確なニュアンスを表現したいからだ。この細かく正確なニュアンスというのを求めるのは、物事の在り様をつぶさに観察したいがためでもあるが、自分がその在り様に感じたもの、言葉になる前の感情を追いかけ続けているからでもある。その向きが強いときもあるし、そうでないときもある。何かに夢中になるとき、さして夢中でもない時にも、厳密にはどうなのか?を際限なく考え続けている。それが結果として何を語るにも多くの言葉と表現を必要とする。多くの言葉と表現が必要とされ、幾度も重ねられ、角度を変え、迂遠になり、冗長になり、いったい何を考えていたのかぼやけることで、そこに結ばれる像は逆にくっきりとしてくる。そのくっきりとした像が私にとってだけくっきりとしているのではないかという恐れがそこに付きまとい、私はそれを他者にとっても確認のできるくっきりとした像に落とし込むためにピントを調整し続ける。

 やたらと長い脱線のようでいて実はこの一連の文章は少女終末旅行の第41話のことを考える補助線になっている。なっているといいが。ひたすら判読性が低い。

 第41話のモノローグが帯びているものを喩える段に戻る。灯滅せんとして光を増す、以外にそれを喩えるなら。それは沈思黙考するとき、瞑想するときに、かえって周囲の環境音などが細かく聞き取れるようなものだ。それは寒い日に人と手をつないだとき、その人の手を温いと感じるような。それは強い恐れを前にしたとき、かえって湧き立つ勇気のような。それは鉛筆で紙を一枚黒く塗りつぶして遊んだ子供がその紙に消しゴムで引っかき傷のごとく細い線を描くような。それは祈るときに祈り以外の不純な気持ちに気付いてしまうような。それは人が亡くなったあと親しかった人たちの記憶の中で故人が息づいていることに語らいの中で触れて喪が明けるような。それは死んでいく人の胸に耳を当ててかすかな心音が消えていくのを感じるときに未だ生きていることを強く感じるような。それは部屋に二人きりでいるときに相手の立てる物音にふいに注意が向いてその音を聞き取り続けるような。それは今まで壁に飾っていたカレンダーを片付けるときになってカレンダーに施されていた意匠に気付くような。それは知っていたはずなのにまるで知らないみたいに過ごしていたような。

 そんなものだ。それは熱じゃない。光じゃない。音じゃない。それは本当にただ失われていく過程だ。それはどんな形をしていたエネルギーも無へと近づき続ける時間、その時間を無限に細分化したときに生まれる、理論上の永遠に対して感じる感傷だ。いつか、この宇宙が冷えて小さくなって消えていくときみたいに、宇宙に内包されるすべては様々な形で親である宇宙の未来の模倣をして先立っていく子供たちであることを知ったとき、子供たちの垣根が壊れて消えて、すべては同じく等しく同じ胎に居るのを、まるで悟ったみたいな気持ちで理解したときの、主観的な時間が現実を無視して恐ろしい分解能を発揮して自分では到底追いきれない未来に手を駆ける無限への感動と畏怖だ。それは本当にただそうなんだ。それは理性と知識が正しく統合して行われた理解の帰結として、最後に待っている、人間の最後の思考だ。人は終わりを考える。その考えにも終わりがある。

 

 さて、そういうものを帯びていると私が感じた少女終末旅行の第41話のモノローグの話を始めよう。この物語の二人の主人公、チトとユーリは旅をしてきた。核の冬のようなポスト・アポカリプスの、文明が死に絶えてしまったあとの時代を、生き残りの少女ふたりは一緒に旅をしてきた。ひたすら文明の残滓の建造物を、上へ、上へと昇っていく旅を。その過程で、乗っていた車や、持っていた本と日記、わずかな食糧と燃料を失ってきた。ふたりは今、塔の中にいて、その階段を昇る。そして遂にランタンの灯が消える。暗闇の中で二人は手をつなぐ。(先ほどモノローグの帯びるものとして一例に出した、寒い日に人と手をつないだとき、というのは、比喩ではなく直喩になる)。手をつないだままチトとユーリは塔の階段を昇り続ける。途中で手袋を外して直に手を繋ぎなおす。(この、直に手を繋いだ瞬間から会話が途絶え、チトのモノローグが膨れ上がっていく)。

 

 闇の中ふたりで階段を昇る。いま二人には二人以外の何もない。つなぎあった手を互いに握り返す。そしてチトのモノローグだったはずの、漫画のコマの中の、つないだ手から出ている吹き出しに、ユーリの台詞が混じる。二人はいま一体化し、ひとつの存在のように伝わりあう。チトのモノローグは語る。「私たちはもう…ひとつの生き物になってしまった」

 そしてチトのモノローグは続く。初めから本当にそうだったとすれば、私の手、ユーリの手、空気、建物、空、触れ合っている世界のすべてが、私たちそのものみたいだと。

 

 いま世界の皮膚は融けている。ふたりしか居ない世界で、ふたりは同じ世界の、同じ空の、同じ建物の、同じ空気の、同じ闇の中、手を繋いで階段をのぼる。その中でチトの主観的な世界の輪郭はどんどんぼやけていく。自分とユーリの間の隔絶は消えていった。同じように他の全ても消えていく。闇を表す黒いページの中に、「私たちそのものみたいだ」というモノローグと、チトとユーリの姿だけが描かれる。描かれたふたりの姿に、他のすべて、描かれなくなった世界が詰まっている。

 

 そして唐突に光が差して闇は晴れる。モノローグは止み、ふたりは再び声を出す。光の中、塔の最後の階段を前に、ふたりは立ち止まり、お互いの手を強く握る。ここが第41話の引きになる。この光の中の引きが、今度は読者をふたりへと一体化させる。チトとユーリの感じる不安、どこまでも果てしなく続くかに見えた闇の中の階段の先にあるものへの好奇心を、読者に強く共有させる。最終話を前にして、最終話の一話前である第41話は強い演出効果を持った引きで幕を閉じる。

 

 私はここまで続きの気になる「最終話の一話前」に触れたことで、いたく感動した。率直に言うと、簡潔に言うと、「少女終末旅行の最終話の一話前の第41話すごい好き」。それだけのことを、できるだけそこに感じた心の本当の動きを追いたくて、この記事を書いた。最終話の感想はあえて書かない。第41話を読んだあと、最終話を読まなくても構わないほど(語弊がある)、第41話は素晴らしかった。

 

 追伸。蛇足になるが、最終話である第42話の、42という数字は、SF作品「銀河ヒッチハイク・ガイド」に登場するフレーズ、”生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え”に対して示される不可解な解答、「42」と同じである。また、チトとユーリという二人の主人公の命名元は、人類初の有人宇宙飛行を成し遂げた宇宙船、ボストーク1号の乗組員、ユーリイ・ガガーリンと、バックアップクルーである、ゲルマン・チトフから取られているのではないか、と思われる。この追伸による補足が何になるのかを私は知らない。もしかしたら、これから少女終末旅行を読む人にとって、その知識がまるで作品の一部のようになるのかもしれない。今日の気温がマイナス3℃だったことは、私にとってまるで少女終末旅行の最終話という作品の一部のようだった。ともすれば私も作品の一部かもしれない。まだ何もかも読み終えていない、あなたですら、その何かの続きや終わりの一部になりうるのかもしれない。

信念と抑圧

 私は自分が何について言及し、何については言及しないかを明確に決めようと心掛けている。その基準になるのは自分の信念だ。私は私の信念を元に、巷での話題のうち、これには抵触しないと決めたものには触れず、話そうと思ったことだけを選択して話そうとする。

 

 ある人がこう言う。「言及すべきでないことに言及しない人は信頼できる、という法則や考えは普遍的なことだけれど、これはすごく他者に対して抑圧的な考え方だから良くないよなあとも思う。」

私は私の信念が及ぼす影響として、他者に対して抑圧的な部分があると認識していなかったので、これを受けて、改めて信念と抑圧の関係について考えを深めてみようと思った。

 

 インドでは牛肉と牛革の産業に携わる人が多く存在し、彼らの多くはイスラム教徒である。一方、現在インドの首相であるナレンドラ・モディ氏はヒンドゥー教徒である。ヒンドゥー教では牛を神聖な生き物としているため、現首相による新しい法律の施行により、牛の畜産や皮革加工は大きく規制を受けた。これによってインドでは多くのイスラム教徒が失職する問題が発生している。

 このケースでは非常にわかりやすく、首相の信念がイスラム教徒を抑圧している。牛は神聖であるため食べてはならず、また皮革の利用も許されないという信念の元に、牛に関わる労働者は抑圧され、仕事を失うことになった。これは信念が内的なものではなく外的な強制力として発動しているケースである。ではもう少し迂遠なケースへと移りたい。

 

 ヴィーガンは倫理的な理由から菜食主義と皮革製品の不使用を徹底している。その理由は動物愛護の観点からである。ここに、近年新たに「人類の文明存続モデルとして、畜産は不適合である」という観点が登場した。平たくいえば、牧草を育てて牛に食べさせてから、その牛を人が食べるのは大きなエネルギーのロスが発生するのに対して、植物を育ててそれを人が食べるほうが遥かにエネルギーのロスが少ない、という話である。つまりヴィーガン生活様式というのは彼らにとって、人類の生活様式として最も正しい形の実践に他ならない。この様式に則らず生活する、非ヴィーガンの人々は、動物愛護の精神に欠け、人類の文明存続に無関心である、と見做されることになる。

 これに対し、私は個人的に抑圧を感じる。けしてヴィーガンの人たちが、私に菜食を強要したり、私が皮革製品を買うのを邪魔するわけでもない。にも関わらず、私はヴィーガンの思想と行動が、非ヴィーガンである私に対して抑圧的であると感じてしまう。これはなぜだろう?

 

 人は自分の行動を正当化する際、そこに一定の根拠を求める。ないしは築いていく。そこにあるのは「こういった行動は正しい。よって私はその行動をとる」という裏付け、行動の強化である。これが個人の行動の範囲である場合、単にその人の信念や生活様式である、という範囲は出ていない。

 これが自身の行動だけでなく、他の人の行動もそれに倣うように強制した場合はどうだろう?それは個人的な信念や生活様式の範囲を超える。先に述べたインドの牛肉と皮革産業の現状のように、ある一定の集団が求める行動の正しさが、他の集団の行動を間違ったものとして抑圧する。こういう場合に抑圧された集団は「抑圧されたと感じる」程度ではなく、より深刻な問題として現実に向き合わざるを得ないだろう。

 

 それならば、と私は問う。ヴィーガンの人々は、非ヴィーガンの人々に対して菜食主義を強制していない。私もそういった影響を受けていない。なのにどうして私はヴィーガンからの抑圧を感じるのか?

 

 これは私が思うに、ヴィーガンの人々の絶対の菜食主義が、個人的な信念でありながら個人的なものではなく「一般化された」信念であるからだ。彼らの行動理念、信念の裏付けには、現実的な問題と倫理観が用いられている。そこに掲示されている倫理観と現実の問題への対処法に私は合致しない。私は肉を食べ皮革製品を使用する。つまり私はヴィーガンの人々の掲げる信念に否定されているのだ。私は、私の行動が彼らの信念と照らし合わせて間違っていると感じる。ここに抑圧がある。けして現実的に抑圧されていないというのに。

 

 話を始まりに戻そう。言及すべきでないこと、を個人的に決めている私が、それを守って生活することは、私の生活様式であり、私の信念である。私はこれを他者に対して強制することなく実践している。しかし、これを「言及すべきでないことに言及しない人は信頼できる」という感覚および価値観に照らし合わせたとき、そこには、抑圧として感じられるものが発生する。それは「言及すべきでないことに言及する人は信頼できない」という対立的な他者が設定されてしまうからだ。なるほど確かに私の信念はそういった人たちを正しくないものとして抑圧しているのだろう。実際に強制しているかどうかは既に問題でない。

 「何が正しいか」を提示した時点で、そこにそぐわない「正しくない人たち」を浮き彫りにし、そこに対して抑圧的であると捉えられてしまう働きを私はここに見る。この一連の文章の冒頭で私が述べた、私が何を話し何を話さないかの基準を持つという信念は、それ自体を表明したことで、既にある形の抑圧を生んでいる。

 

 ここで私は、また一つの疑問を持つ。もし、私が何も表明せず静かにそれを実践しているだけの場合、そこには全く抑圧が無いのかどうかも疑わしくはないだろうか?確かに私は言及すべきでないことに言及する人々への、僅かな抑圧の気持ちを持たないとは言い切れない。私以外の人々が私と同じ基準に則って言及する内容を選別することを良しとする感覚が、まったくないとは言い切ることができない。

 

 これを受けて私の認識は変容する。なんらかの形で信念が存在し、それが行動の形を決めるとき、それは個人的な範囲に留まるものではなく、どこかで他者に対して影響を及ぼしている。以前までの私が覚えていた、「個人的な信念は個人的な範囲を出ない」という認識は甘いものである。しかし、「言及すべきでないことを言及しない人は信頼できる」という価値観が、「他者に対して抑圧的であるから良くない」ということに対しては、それを抑圧的であると捉えた場合にしか「良くない」と評される効果を発生しない点、ならびに「抑圧的であることは悪いことなのかどうか」を私は疑問に思う。そして抑圧的であることの是非と同時に、全く抑圧的でない人の在り方というものは可能なのだろうか?と考える。おそらくだけれど、徹底的にすべての他者から抑圧されることをよしとするか、すべての抑圧を拒むことができず抑圧されきった人だけが、他者に対し抑圧的でない人なのだろう。これを皮肉と呼ばずに何と呼ぶのかを私は知らない。