潜在的トランスジェンダー、文化盗用、環境と自由意志の話

 性同一性は性的指向を決定しない。また、性的指向から性同一性を推測することはできない。

それがどういうことなのか、幾つかのパターンを提示する。

例1、性自認(性同一性)が女性であり、身体の性が女性で、性的指向が女性である人の場合。この人は同性愛者であるという自覚を持つだろうし、周囲からもそう認識されるだろう。

例2、性自認が女性であり、身体の性が女性で、性的指向が男性である人の場合。この人は異性愛者として自覚し、認識される。

例3、性自認が男性であり、身体の性が女性で、性的指向が女性である人の場合。この人の自覚はどうなるのだろう?自分は男性であり、性的指向は女性だ、として異性愛者として自覚する可能性。それと同様に、自分の身体は女性であり、性的指向は女性であることから、同性愛者として自覚する可能性もある。周囲からの認識はどうだろう?服装、手術や注射によって外見がどちらの性に見えるか、を元にして判断される場合と、経緯を知って認識を改める場合がある。そのどちらでも同性愛者/異性愛者として認識されうる。

例4、性自認が男性であり、身体の性が女性で、性的指向が男性である人の場合。この人の自覚はどうなるのか。自分は男性で、性的指向は男性だから同性愛者だと思うことも、身体は女性で性的指向は男性だから異性愛者だと思うこともあるはずだ。周囲からの認識も、例3のようにやはり、外見上の性別から判断され、また事情や経緯を知ってから認識が変わりうるパターンだろう。

 

例4について、もう一度書こう。身体は女性で、心は男性だ。性的指向は男性である。この人が女性的外見をしていた場合、異性愛者として扱われることは多いだろう。また、身体は男性で、心は女性であり、性的指向は女性である人が男性的外見だった場合も、同じように周囲からは異性愛者として認識され扱われる。

 

ここまでに、本人の自覚と、周囲からの認識の話を並列したのは、それが一致しなかった場合、本人の主張が周囲に受け容れられないケースの問題について書くためである。その話に移ろう。

 

異性愛、同性愛は、社会では一般的に身体の性に基づいて判断されてきた。自分の身体の性と、相手の身体の性が異なれば異性愛、同じならば同性愛として。これを、身体の性ではなく、心の性、性同一性(性自認)に基づいて判断することに対して、社会の認知度は著しく低い。

 

例4のように、性自認が生まれもった身体の性と違う・性的指向性自認の性と一致する人が、自分は同性愛者である、性同一性が身体と異なると主張したとき、これらの問題について疎い人(性自認性的指向はセットではないと知らない人)は、概ね「あなたは普通の異性愛者である」と反応する。身体的に異性である人を愛することは、普通の異性愛であり、あなたは性自認を取り違えているだけだと指摘する。(この傾向は、思春期の子供のカミングアウトに対して親が拒絶を示す際などに強い。)

 

例4の人が、自分は同性愛者であり、トランスジェンダーである、と主張したとき、例3の人から、否定され、場合によっては、すさまじい怒りと嫌悪を向けられることがある。今回の記事の主題はここである。

 

身体の性と性自認が違い、身体の性と性的指向が同性である人のうち、「異性愛か同性愛かを身体の性によって判断する人たち」にとって、トランスジェンダーであり同性愛者である人とは、まぎれもなく自分たちのことであり、それ以外の他者では決してない。彼らにとって異性愛者である人たちが、トランスジェンダーであり同性愛者であると主張することは、彼らに大きな混乱を招くのだ。

彼らはこう反応する。「あなたはトランスジェンダーではないし、同性愛者でもない」。そして、こう続けられる。「異性愛者である人によって、私たちトランスジェンダーであり同性愛者である者の尊厳はいたずらにアクセサリー化されている。文化が盗用されている」

 

近年、同性愛とトランスジェンダーを題材にした映画が多く制作されている。しかし、その殆どにおいて、同性愛者やトランスジェンダーを演じるのは、同性愛者やトランスジェンダーではなく、異性愛者の俳優たちである。これに対し、同性愛者やトランスジェンダーから「当事者ではない人たちによって文化が盗用されている」との声が挙がっている。

 

文化の盗用(Cultural appropriation)とは何か?について説明を挟む。

 

この言葉には幾つかの側面がある。

1、文化に対して理解のないまま表面的に真似をする

2、マジョリティがマイノリティの文化を借用する

3、敬意の欠けた模倣

4、文化の所有者ではない者が、その文化を用いることへの批判

 

歴史的に、世界の数多くの植民地では同化政策によって現地の文化は追いやられ、消滅した。これに対する反動として、原住民の文化を保護しようとする運動が強まり、マイノリティの文化をマイノリティの財産として意識するようになる。その結果として、エスノセントリズム(自民族の文化を基準とし大切にする一方、他民族の文化を否定し、排他する主義。同化政策のような文化侵略に対抗するため生まれたものだが、同化政策と同じことをマイノリティ側から行う形である)が広がっていった。

文化盗用、という考え方は常にエスノセントリズム的である。文化は固定的なものであり所有者である集団が存在する、という考え方の元、その文化の帰属者でない者がその文化を行うことを、攻撃の意図をもって否定するとき、この「文化の盗用」という言葉は使われる。

黒人音楽を生み出したのは黒人だが、黒人音楽を商業的に成功させたのは白人のミュージシャンたちだった。文化の創り手でありながら、差別によって音楽業界から締め出され、白人に利権を簒奪されてきた黒人にとって、黒人音楽を白人が演奏する姿は苦々しいものに映る。これは音楽に限らず、ドレッドヘアーやアフロなどの髪型を黒人以外の人種がすることも否定される。

しかし、黒人音楽や、ドレッドヘアーなどは、黒人だけの固有の財産なのだろうか?他民族の文化を取り入れること、行うことは否定されるべきなのだろうか?これは黒人の文化に限らない。ネイティブ・アメリカンの民族衣装を着た白人、和服を着た白人に対しても文化盗用が叫ばれる。文化は違う民族の間で交流され、変化してきたはずだ。なぜ文化に「所有者」が定められてしまうのだろう?

 

人は生まれる場所を選べない。自分の両親の人種によって自分の生まれもった人種が決まり、生まれついての性別が身体の性として決まる。自らの意志によって何かを選ぶ前に、環境は決定されていて、その中で育ち、人格は形成されていく。もしもこの世界が決定論的に、「先に決まっていたことによって後のことも全て決まっている」のならば、そこに自由意志はない。人は与えられた環境、与えられた出自、与えられた性、与えられた身体によって決められた道を、決められたように進んでいくことになる。

 

 しかしそうではないはずだ。我々は生まれた時からお互いに影響を受けながら生きている。成長する過程で幾つもの変化を経験し、自分はどうしたいのか、どうするのかを選べるようになっていく。生まれもった性別に規定されず、成長して気付いた性自認にも規定されず、もしかすると自らの性的指向にさえ規定されず、人を好きになる。

同性愛は同性愛者だけの固有の文化ではないし、トランスジェンダーの有り様に定型はない。黒人音楽が黒人だけのものでないように、白人音楽も、雅楽も、特定の所有者しか使えないものではない。異性愛もそうだ。「文化の盗用」はいつも、パブリックである、と見做されたものに対しては叫ばれない。同性愛者であることを公言している俳優が、映画の中で異性愛者を演じたとき、「異性愛者でない者が異性愛という文化を盗用している」とは言われない。異性愛はパブリックであり普通のものであり誰にでも解放されているので盗用には当たらず、白人の文化はマジョリティのものなので黒人や黄色人種が用いても盗用に当たらない、と無意識に判断している傲慢さが、文化の盗用を叫ぶ。黒人が差別に苦しみ「白人に生まれたかった」と口にしたとき、それは批判されない。白人が黒人に憧れ「黒人に生まれたかった」と口にしたとき、往々にしてそれは批判されてしまう。だが、選べなかった環境によって決定されたものに対して、自分の意志で何かを望むことが、どうして人に否定できるだろう。

 

 例1から例4までの話に戻る。心の性を元にして異性愛/同性愛を判断するならば、性的指向の相手の性別も、やはり心の性を考えなければならない。すると、組み合わせは途端に増えていく。自分の性自認が身体の性と違うことに無自覚な場合、相手もそうであるかもしれない場合、その愛の形が異性愛なのか同性愛なのか、はたまた両性愛全性愛や無性愛なのか、どこまでもわからなくなっていく。人は誰しもが潜在的トランスジェンダーである。我々は潜在的トランスジェンダーであり、同性愛者であり、異性愛者であり、あるいは、あなたがもっと新しいものを見つける。