信念と抑圧

 私は自分が何について言及し、何については言及しないかを明確に決めようと心掛けている。その基準になるのは自分の信念だ。私は私の信念を元に、巷での話題のうち、これには抵触しないと決めたものには触れず、話そうと思ったことだけを選択して話そうとする。

 

 ある人がこう言う。「言及すべきでないことに言及しない人は信頼できる、という法則や考えは普遍的なことだけれど、これはすごく他者に対して抑圧的な考え方だから良くないよなあとも思う。」

私は私の信念が及ぼす影響として、他者に対して抑圧的な部分があると認識していなかったので、これを受けて、改めて信念と抑圧の関係について考えを深めてみようと思った。

 

 インドでは牛肉と牛革の産業に携わる人が多く存在し、彼らの多くはイスラム教徒である。一方、現在インドの首相であるナレンドラ・モディ氏はヒンドゥー教徒である。ヒンドゥー教では牛を神聖な生き物としているため、現首相による新しい法律の施行により、牛の畜産や皮革加工は大きく規制を受けた。これによってインドでは多くのイスラム教徒が失職する問題が発生している。

 このケースでは非常にわかりやすく、首相の信念がイスラム教徒を抑圧している。牛は神聖であるため食べてはならず、また皮革の利用も許されないという信念の元に、牛に関わる労働者は抑圧され、仕事を失うことになった。これは信念が内的なものではなく外的な強制力として発動しているケースである。ではもう少し迂遠なケースへと移りたい。

 

 ヴィーガンは倫理的な理由から菜食主義と皮革製品の不使用を徹底している。その理由は動物愛護の観点からである。ここに、近年新たに「人類の文明存続モデルとして、畜産は不適合である」という観点が登場した。平たくいえば、牧草を育てて牛に食べさせてから、その牛を人が食べるのは大きなエネルギーのロスが発生するのに対して、植物を育ててそれを人が食べるほうが遥かにエネルギーのロスが少ない、という話である。つまりヴィーガン生活様式というのは彼らにとって、人類の生活様式として最も正しい形の実践に他ならない。この様式に則らず生活する、非ヴィーガンの人々は、動物愛護の精神に欠け、人類の文明存続に無関心である、と見做されることになる。

 これに対し、私は個人的に抑圧を感じる。けしてヴィーガンの人たちが、私に菜食を強要したり、私が皮革製品を買うのを邪魔するわけでもない。にも関わらず、私はヴィーガンの思想と行動が、非ヴィーガンである私に対して抑圧的であると感じてしまう。これはなぜだろう?

 

 人は自分の行動を正当化する際、そこに一定の根拠を求める。ないしは築いていく。そこにあるのは「こういった行動は正しい。よって私はその行動をとる」という裏付け、行動の強化である。これが個人の行動の範囲である場合、単にその人の信念や生活様式である、という範囲は出ていない。

 これが自身の行動だけでなく、他の人の行動もそれに倣うように強制した場合はどうだろう?それは個人的な信念や生活様式の範囲を超える。先に述べたインドの牛肉と皮革産業の現状のように、ある一定の集団が求める行動の正しさが、他の集団の行動を間違ったものとして抑圧する。こういう場合に抑圧された集団は「抑圧されたと感じる」程度ではなく、より深刻な問題として現実に向き合わざるを得ないだろう。

 

 それならば、と私は問う。ヴィーガンの人々は、非ヴィーガンの人々に対して菜食主義を強制していない。私もそういった影響を受けていない。なのにどうして私はヴィーガンからの抑圧を感じるのか?

 

 これは私が思うに、ヴィーガンの人々の絶対の菜食主義が、個人的な信念でありながら個人的なものではなく「一般化された」信念であるからだ。彼らの行動理念、信念の裏付けには、現実的な問題と倫理観が用いられている。そこに掲示されている倫理観と現実の問題への対処法に私は合致しない。私は肉を食べ皮革製品を使用する。つまり私はヴィーガンの人々の掲げる信念に否定されているのだ。私は、私の行動が彼らの信念と照らし合わせて間違っていると感じる。ここに抑圧がある。けして現実的に抑圧されていないというのに。

 

 話を始まりに戻そう。言及すべきでないこと、を個人的に決めている私が、それを守って生活することは、私の生活様式であり、私の信念である。私はこれを他者に対して強制することなく実践している。しかし、これを「言及すべきでないことに言及しない人は信頼できる」という感覚および価値観に照らし合わせたとき、そこには、抑圧として感じられるものが発生する。それは「言及すべきでないことに言及する人は信頼できない」という対立的な他者が設定されてしまうからだ。なるほど確かに私の信念はそういった人たちを正しくないものとして抑圧しているのだろう。実際に強制しているかどうかは既に問題でない。

 「何が正しいか」を提示した時点で、そこにそぐわない「正しくない人たち」を浮き彫りにし、そこに対して抑圧的であると捉えられてしまう働きを私はここに見る。この一連の文章の冒頭で私が述べた、私が何を話し何を話さないかの基準を持つという信念は、それ自体を表明したことで、既にある形の抑圧を生んでいる。

 

 ここで私は、また一つの疑問を持つ。もし、私が何も表明せず静かにそれを実践しているだけの場合、そこには全く抑圧が無いのかどうかも疑わしくはないだろうか?確かに私は言及すべきでないことに言及する人々への、僅かな抑圧の気持ちを持たないとは言い切れない。私以外の人々が私と同じ基準に則って言及する内容を選別することを良しとする感覚が、まったくないとは言い切ることができない。

 

 これを受けて私の認識は変容する。なんらかの形で信念が存在し、それが行動の形を決めるとき、それは個人的な範囲に留まるものではなく、どこかで他者に対して影響を及ぼしている。以前までの私が覚えていた、「個人的な信念は個人的な範囲を出ない」という認識は甘いものである。しかし、「言及すべきでないことを言及しない人は信頼できる」という価値観が、「他者に対して抑圧的であるから良くない」ということに対しては、それを抑圧的であると捉えた場合にしか「良くない」と評される効果を発生しない点、ならびに「抑圧的であることは悪いことなのかどうか」を私は疑問に思う。そして抑圧的であることの是非と同時に、全く抑圧的でない人の在り方というものは可能なのだろうか?と考える。おそらくだけれど、徹底的にすべての他者から抑圧されることをよしとするか、すべての抑圧を拒むことができず抑圧されきった人だけが、他者に対し抑圧的でない人なのだろう。これを皮肉と呼ばずに何と呼ぶのかを私は知らない。