discordで通話しながら映画を観るサーバーを立てました

https://discordapp.com/invite/ZUdmeqx

 

7月の半ばくらいにハンバーガーさんと話していて、「みんなで集まって映画観るのやりたいね~」ということで突発的に作りました

突発的に作って名前決めたのでサーバー名が「インターネットの悪いシネマ」になってます。

internet vice cinema...

 

何をしているかというと、NetflixやHuluのようなストリーミングサービスを契約している人たち同士で、それぞれ同時に再生ボタンを押して一緒に映画を観てます。

音声通話しながら、またはテキストチャンネルでチャットしながら。笑えるシーンで一緒に笑ってたり、既に観たことある人のオーディオコメンタリー的な解説を聴きながら等。観終わったあとは感想を話し合う、次に観たい映画を挙げていく、とか。

 

サーバー立ててからかなりハイペースに沢山映画を観てる気がします。3週間でたぶん12本くらい?普段は一人で静かに映画観てるので、みんなとわいわい話しながら観るの新鮮で楽しいですね。だいたい金曜夜の22時くらいから開催してることが多いです。

 

鑑賞中に面白いコメントが飛び交ってたりするので抜粋で書き起こしたらブログのネタに困らないな……

初めて映画館で観た映画はなんですか?

 幼少期のとある日、両親が「映画館に行こう」と言い出した。私と弟は、それまで一度も映画館に行ったことがなかったから、映画館がなんなのか、よくわからないまま両親に連れられて車に乗せられ、どこへ行くのかを全く気にせず車の中で遊びながら、気が付くと映画館の入っている建物に辿り着いた。たぶんSATYだったと思う。板橋のサティ。

 今みたいにインターネットでのチケットの予約が無かったから、両親は窓口でチケットを買ったんだけど、なんだか席が埋まっていたみたいで、「いちばん前の席になっちゃった、大変かもね」と両親に言われた。そもそも映画館が何かまだ分かっていなくて、一番前の席がなんだかもわからない私と弟は、この広い謎の建物をくるくる見回している。踏み心地の良い絨毯。なんだか知らない食べ物の匂い。天井から吊るされた、なにかの看板。あれがポップコーンの匂いやワーナーブラザーズのロゴだと知るのは、もう少し後になってからだった。

 弟と手をつないで、映画館の中の、大きな取っ手のついた扉をくぐる。そこに広がっていたのは、大きな斜めの部屋の中に並んだ、たくさんの椅子。

弟が喜んで駆けだして階段を昇っていく。転びそうな弟を心配しながら私も追いかけていく。後ろから「席は一番前のところだよ!下りてきて!」と両親の声がする。弟を連れ戻して階段を下りる。両親に挟まれる形で、私と弟も椅子に座る。

「今日はスターウォーズみるよ」とそこで初めて伝えられる。いや多分だけど家でも言われたしチケット買うときにも教えられていたはずだ。私も弟も話をよく聞いていなかったに違いない。

スターウォーズ!?」あのスターウォーズ!?家でビデオで観てたやつ!?急にわくわくしてくる。どうやら、この目の前に広がっている白い大きな壁でスターウォーズを観るらしい。

スターウォーズの新しいやつだよ」スターウォーズの新しいやつ!?スターウォーズって新しいやつとかあったの!?ほんと!?

 

というわけで、私が初めて映画館で観た映画は「スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス」でした。

最近のアイマスで気に入った曲

O-Ku-Ri-Mo-No Sunday!

 

www.youtube.com

 

月曜日のクリームソーダ

https://www.youtube.com/watch?v=XdNJZ_fCX60

上に貼った公式動画が月曜日のクリームソーダのユニットJelly Pop Beansの専用衣装ではなく、汎用のプロローグルージュだったので、ユニット専用衣装MVを下記に

https://www.nicovideo.jp/watch/sm35347214

 

 

よりみちサンセット

 

www.youtube.com

 

O-Ku-Ri-Mo-No Sunday!はジャンルでいうとなんだろう?明るくて楽しい

久川姉妹のキャラクターが良かったから曲を好きになったのか、曲が良かったから久川姉妹を好きになったのかわからない、両方かも

 

月曜日のクリームソーダドゥーワップなのは教えてもらって知った。ロコがリーダーの曲なので衣装やステージもロコがデザインしたというコンセプトだからレトロかつおしゃれな感じ

ドゥーワップは詳しくないので別ジャンルでブラジル音楽になるんだけど、セルジオ・メンデスの昔出演してた音楽番組の映像とか観てると、曲名やユニット名がテロップじゃなくてステージに実際に置いてある看板や照明でデコレーションされて表示されてて、昔の音楽番組とんでもなくオシャレだな……と思ってたから、そこに近しいものを月曜日のクリームソーダに覚えた。

 

よりみちサンセットの参照元リリカルスクールだよと教えてもらってリリカルスクールも聴き始めた。

https://www.youtube.com/watch?v=Z74x-fvLxsI

 

ヒップホップ×アイドル×夏、好きになった、涼しいから

よりみちサンセット良い曲……刺さった

よりみちサンセットのギターの弾いてみた動画を見つけて聴いてたんですが、それも良かった、このテの音ひたすら好き、特に夏は

https://www.youtube.com/watch?v=5PZ19j7Lib8

ブログ毎日書く月間はじめます

 軽めに短い記事を毎日ちょっとずつ更新していきます。

今日は、最近のことでブログに書こうと思っているものを軽くリストアップするだけ。

・先月に誕生日を迎えて、色々な誕生日プレゼントをいただいたので、その感謝を改めて。ありがとうございます。

・最近、discordで通話しながらみんなでストリーミングの映画を観る会を始めたので、それについて。

・最近観た映画、読んだ本の感想。

夢日記をつける。夢日記を動画化して面白いコンテンツにする。

のんびりゆるくやっていきます。いつも気合が入りすぎて疲れちゃってブログ休むので……

映画「山猫」の感想

ルキーノ・ヴィスコンティ「山猫」4Kレストア版を観ました。

 

このシーンは変化への戸惑いを、このシーンは変化への順応を示しているんだな、ということが理解できた。

 


ファブリツィオの、自身は時代の亡霊であるという意識故に上院議員への誘いを断った後、甥のタンクレディが立候補する報せを聞いて、馬車に乗らず歩くことを選んだ心境。

彼が帰路を歩く道すがら、民家で誰かが亡くなったあと、その家へと向かう神父を見送り、十字を切ってから星空を見上げる瞳。

かつてコンチェッタとタンクレディの愛を引き裂いて、時代への順応を打算的に押し付けた本人であるファブリツィオが、今度は革命と統合の中で、時代への順応のために誇りと信念を失っていく貴族たちを目にして、受け入れられず目を伏せる姿。

踊りの輪の中に加わっていくタンクレディとアンジェリカ。

 


美しさを懐かしむための映画ではない。けれど懐かしんでしまう。受け入れたはずの変化に我々は順応できない。受け入れるつもりでなかった変化に我々は順応してしまう。

映画「タクシードライバー」の感想

ラヴィスはどういう人間なんだろう。

アイリスに対して、家に帰れ、学校へ行け、と強く言う姿から、おそらくトラヴィス自身がそういう人生を送りたかった(が、送れなかった)ことが窺える。映画全編を通してわかる通り、トラヴィスには教養がない。デートでポルノ映画へ行き、政治は何もわからないと遠ざける。トラヴィスは自分の抱えている苦しみや問題に対処する術を持たない。彼は助けを求めることができない。どうすれば自分が助かるのか分からないからだ。最も、これは彼個人の問題ではない、70年代当時のアメリカで、PTSDに苦しむベトナム帰還兵を救う方法は殆ど誰も持ち合わせていなかった。トラヴィスの運転するタクシーに乗り込んだ議員とのやり取りの中で、もしトラヴィスに少しでも知恵があれば、当時のアメリカに少しでもベトナム帰還兵への理解や配慮があれば、彼は議員に「君の考えるアメリカの問題は?」と訊ねられたとき、自身のようなベトナム帰還兵が定職に就けずにいること、日々苦しんでいることを訴えることができた。それすら叶わない、出口のない生活の中で、彼は破滅へと突き進もうとする。

ラヴィスは破滅したいのだろうか?

おそらく違うだろう。いっそベトナムで死んでいたら、と思うことが微塵もないとは言い切れないが、彼は死のうとはしていない。彼は終わらない地獄からの脱出方法がわからない。閉塞感の中で思いつくのは、自分なりに思いついた義憤、怒り、正義のための戦い。

ベトナムで戦い、そして勝利も正義も得られずに帰国し、不眠症を患い、苦しんでいたトラヴィス。彼は自分の暮らすニューヨークを綺麗にするために、凶行に及ぶ当日、髪を刈り上げモヒカンにする。かつてベトナムで自身か……もしくは戦友がしていたであろうモヒカンに。

しかし、幸か不幸か、彼の凶行は失敗し、思っていたのとは違う結末を迎える。これは彼の救いになったんだろうか?少しはガス抜きになったのか?

 


まだトラヴィスの苦しみは終わっていない。いつか、また怒りと苦しみが爆発する日が訪れて、そして、彼に2度目の幸運は無いだろう。

映画「ゼイリブ」感想と考察 良い子のみんなは宇宙人見つけてもいきなり撃っちゃダメだよ

 映画「ゼイリブ」製作30周年記念HDリマスター版を観た。

 

この映画は作品内に描かれていることそのものではなくて、これを観た人がどう考えるか、という作品の外側にメッセージがあると私は思っている。

 

ゼイリブ」がどういう映画か、を簡単にまとめると、

社会の中に宇宙人が潜んでいて、彼らがアメリカを支配している。それを知った主人公は彼らの支配を崩そうと試みる。……このまとめ方ちょっと語弊がある気はする。

 

 

 映画の冒頭。不況の中、仕事を求めて街へやってきた流れ者のネイダ。貧しい暮らしをしながらも、ネイダはアメリカという国の自由や公正さを信じている。ルールを守って真面目に働いていれば、いつか報われる、アメリカはそういう国だと信頼している。しかし、ある日偶然手に入れた奇妙なサングラス越しの視界を経て、ネイダの世界は一変する。街のいたるところに仕掛けられたサブリミナル。人間に交じって生活する宇宙人たち。既にアメリカは毒されていたのだ……信じていたはずのアメリカは……

 

……と、隠された真実に気付いた、というところまでは良いんですが、この後の主人公ネイダの動きがやばい。宇宙人の警官を殴り倒して射殺、銃を奪ったあと銀行へ行き、目に入った宇宙人を次々と撃っていく。不思議なサングラスを掛けてみたら、人間に化けた宇宙人を見つけちゃった!となった後、クッションなしに彼らを殺し始める。作劇上のテンポを良くするため、とかで言い訳が効かないレベルで危ない。

その後、建設現場での仕事仲間のフランクに"このサングラスを掛けてくれ!真実を知るんだ!"と詰め寄るも拒絶された挙句、延々と殴り合いを繰り広げ、無理やりフランクにサングラスを掛けさせるネイダ。この殴り合いのシーンがマジでどうしようもなく長い。長すぎる。長すぎて思わず笑ってしまうか、ウンザリする。ここで観客から主人公への感情移入や共感が薄れるというか、ちょっと引いた視点で観れるようになるのも肝だと思う。

アメリカが宇宙人によって支配されていることを知ったネイダとフランクは、お互いの身の上話を始める。話はネイダの父親のことに及ぶ。ネイダの父親が彼を虐待していた話が出た途端、フランクが"それもヤツら(宇宙人)のせいだ"と息巻く。"宇宙人は俺たち人間がお互いに傷つけ合い苦しむのを見て笑ってやがるんだ。ゆるせねえ"

……え?いや……それは……ちょっと関係ないんじゃないかな……まあ……その……貧富の差の拡大とか……搾取構造とか……行き過ぎた消費とか……資本主義やグローバリズムの歪みが巡り巡って一家庭に不和をもたらすのはあるかもしれないけど……全部を宇宙人のせいにするのは……

 

そしてなんやかんやあって主人公たちは、サングラスを作ったレジスタンスたちのアジトへたどり着く。レジスタンスたちによると、どこからか発信されている電波によって、宇宙人は人間を洗脳し支配している。その電波を止めれば、サングラスなしでも宇宙人の正体を見破り、街中にあふれるサブリミナルを看破できるらしい。しかしアジトは警官隊の襲撃によって壊滅、そこから逃げ延びた主人公たちは宇宙人の秘密基地へ潜入、どこからか発信されている電波を止めるため戦う……。

 

という、SFスリラー映画なんですが、正直スリラー要素に関していうと、宇宙人なんかより主人公ネイダのほうが怖い。劇中で一切なにひとつ躊躇しないし、物を考えるとか反省するとか推察する様子がゼロ。見た!知った!殺す!で動いていく。警官を倒したあと、流れるような動きでパトカーのダッシュボードからショットガンを失敬するところなんか「きみ……初犯じゃないよね?」と変な笑いが出る。変な笑いどころは全編通してあるからそれがこの映画の魅力ではある。

 

 本題に入る。「ゼイリブ」を観て、主人公よろしく"世界を牛耳ってるヤツらがいる、ゆるせない、俺たちの生活が苦しいのはヤツらのせいだ"という受け取り方をする人たちが一定数居る。そして最近は、ヘイトクライムや人種差別の場で、この作品の名前を出して「ゼイリブみたいな感じだよ」と自分が嫌う対象を排斥する大義名分のように語る人がいる。主にネオナチなんかがそうだ。それに対してゼイリブの監督ジョン・カーペンターが苦言を呈していた(↓)

30年前のカルト的SF映画『ゼイリブ』がいま、なぜかネットで再び盛り上がる“不快”な事情|WIRED.jp

ことを受けて、私なりに、監督も別に意図していない範囲まで、現代、2018年の私としての作品の読み込みをしてみようと思った。

 

 特権階級による支配、資本主義の暴走、を組み込んで撮られた映画であり、またゼイリブは侵略者による支配と、それへの拒絶を組み込んだ映画である。遠い星からやってきた宇宙人によって支配されるアメリカ。その支配を受け容れる人間もいれば、拒絶し、徹底抗戦する人間もいる。これが何の縮図かと言えば、それはまさしく植民地時代のアメリカだ。ヨーロッパからの開拓者たちを前に、戸惑いながらも物品の交換などで交流するネイティブアメリカンたち、また、故郷を守るため戦いを挑み、征服されていくネイティブアメリカンたち。入植者たちの圧倒的な軍事力や工業力を前に、次々とアメリカは塗り替えられ、ネイティブアメリカンたちの世界、それまで暮らしてきたアメリカは切り取られ続けていった。

 翻って、ゼイリブの世界。かつて自分たちが侵略者だった自覚など、冷戦末期のアメリカ国民にはない。自分たちの国が宇宙人によって脅かされている――という恐怖は、開拓時代にネイティブアメリカンが彼ら入植者に対して抱いた恐怖と重なる。新たな入植者である宇宙人とその支配を、かつて入植者であったアメリカ人はどこまで否定し、拒めるのか。

 

 資本主義とグローバリズムによる、世界各地のライフスタイルの均質化の是非と不気味さもまた、ゼイリブで描かれるテーマのひとつである。大量生産と大量消費、流行に従って皆が同じものを買いあさる時代の裏に、実は人々を操る隠されたメッセージがあったなら――ゼイリブの劇中では、それは看板や商品に仕掛けられた、サブリミナルとして存在する。現実では、それは耳障りの良いキャッチコピーであり、CMであり、与えられた価値観の雛形になるだろう。自分の意思で行動しているつもりが、巧妙に誘導されていることに気付けないことへの危機感を視覚化した結果が、ゼイリブのサブリミナルになる。(余談だが、現代の行動ターゲティング広告において、ユーザーの閲覧履歴を元に興味を持ちそうな広告を表示する、というのが基本の手法だが、そうして表示される広告の中に、ユーザーの閲覧履歴とは無関係に特定の広告を表示し続けていると、そのユーザーはそちらの広告へと興味や関心を持つように誘導されていく、というデータがある。)

 ライフスタイルの均質化、個人が何を欲するかを社会に植え付けられている、というテーマは、映画「ファイト・クラブ」にも見られる。みんなが欲しがるものを自分も買い、現代社会に適さない闘争心や暴力は自ら抑圧し、おとなしく右に倣えで生きていく中で、そうではない生き方を望んだなら――。

 グローバリズムの暴走やライフスタイルの均質化のプレッシャーは、断片的にアニメ「フリクリ」にも描かれている。宇宙規模で展開する大企業。その巨大プラントが街に出来て、そのプラントを取り囲むように、関連企業や社宅、下請けの工場が立ち並ぶ。そして世界中にプラントが建ち、どの街も同じように、プラントを中心とした暮らしになっていく。そうして宇宙中の星はかたっぱしから平均化され、平たくされていく。もはや目的や意味などなく――。

 

ゼイリブでは、主人公は支配からの解放を求めてひたすら突き進む。ファイト・クラブでは、主人公はそこにブレーキをかける。フリクリでは、解放されることなく日常が続く。

 

ゼイリブの最後では、主人公によって秘密のベールを剥がされた世界が、その後どうなるのか、までは描かれない。多くの混乱が予期されるに留まり、主人公の行動がはたしてどう作用したのか、その是非などは分からない。

 

特権階級による支配構造、社会格差に対して戦いを挑む主人公が、ゼイリブでは手放しに肯定されてはいない。かといって、否定されてもいない。

社会に対して変革を求めるとき、暴力に訴えることは中々容認されることではないが、完全に否定されるものでもない。抵抗権や革命権、アメリカ独立宣言のように、権力が間違っているときに、市民はこれを打ち倒す権利を持つ、という風穴は、どこかに用意されている。もし用意されていなくても、市民は革命を起こすべくして起こすだろう。それは本当に起こしてよいのだろうか?その後の社会を、どこまで見据えているのだろうか?

しかし、戦うべきでない、立ち上がるべきではない、とは言い切ることができない。支配を甘んじて受け入れるのも、盲目的に従うのも、それが生存を脅かさない範囲においての話だ。

 

アラブの春以降の、今日の中東の混乱と、政情不安、地獄のような内戦を見て、革命が起きてよかった、と思うことができない。しかし、革命は起こすべきでなかった、とも思えない。なんらかの変化は必要だった。あまりにも変化は大きすぎた。

 

 

 冒頭に述べた、作品の外側にメッセージがある、という件に立ち返る。これはつまり、作中ではそれを明示せず、どう判断するべきかの結論が出ない状態、観客が主人公の行動の是非を判断しかねる状態に持っていくまでが、映画「ゼイリブ」の構造なのだ。敵を見つけた途端に喜び勇んで排除しにかかる主人公には眉を顰めるし、かといって戦わずに恭順すべきだとも言えず、結論が出せない。こうするべきだった、と主張をどちらかに寄せてしまうと、途端にこの映画は重力を失って、ただの変なカルト映画になってしまう。殴り合いのシーンとかめちゃくちゃ長いし。いやほんと……長い……

 

 ゼイリブの感想を書き始めて、最初は単に「殴り合いのシーン長すぎて笑った」とだけ書いて終わりにする予定だったのに、なぜか色々書いて話題が散らかってしまったので殴り合いのシーンの話に戻ります。ゼイリブの、ネイダとフランクの殴り合い、動機はサングラスを掛けさせるためだったのに、延々と殴り合ってるうちに完全に目的を見失ってる感じになるんですよね。戦いが長引いていくと、なんの為の戦いだったか分からなくなるみたいな……戦争もそうだよね……みたいな……いや……こんな……こじつけ方するか普通?あまりにも長くてクドい喧嘩シーンを前に、疑似的な厭戦気分が発生することで、クールダウンが図れて観客が主人公のことを「こいつ危なくない?」と思うキッカケになるのは小技が効いてて上手いと思う。絶対そんなんじゃないわ。主人公ネイダの役者はプロレスラーのロディ・パイパーなんですけど、絶対ロディ・パイパーが戦ってるところ撮りたいから撮ったでしょ長い喧嘩シーン。なんなんだゼイリブ

 

 

 結論が出ないなりに。散々ネイダのことを危ないやつ呼ばわりしてきたけれど、彼は決して特殊なメンタルの持ち主などではない。むしろ世の中の大半の人は、私も含めて、ネイダと同じくらい、単純で、見境が無くて、自分の考えに疑念を持たずに行動してしまう。簡単に結論を出してしまう。ためらいは無いより有ったほうがいい。