映画「ゼイリブ」感想と考察 良い子のみんなは宇宙人見つけてもいきなり撃っちゃダメだよ

 映画「ゼイリブ」製作30周年記念HDリマスター版を観た。

 

この映画は作品内に描かれていることそのものではなくて、これを観た人がどう考えるか、という作品の外側にメッセージがあると私は思っている。

 

ゼイリブ」がどういう映画か、を簡単にまとめると、

社会の中に宇宙人が潜んでいて、彼らがアメリカを支配している。それを知った主人公は彼らの支配を崩そうと試みる。……このまとめ方ちょっと語弊がある気はする。

 

 

 映画の冒頭。不況の中、仕事を求めて街へやってきた流れ者のネイダ。貧しい暮らしをしながらも、ネイダはアメリカという国の自由や公正さを信じている。ルールを守って真面目に働いていれば、いつか報われる、アメリカはそういう国だと信頼している。しかし、ある日偶然手に入れた奇妙なサングラス越しの視界を経て、ネイダの世界は一変する。街のいたるところに仕掛けられたサブリミナル。人間に交じって生活する宇宙人たち。既にアメリカは毒されていたのだ……信じていたはずのアメリカは……

 

……と、隠された真実に気付いた、というところまでは良いんですが、この後の主人公ネイダの動きがやばい。宇宙人の警官を殴り倒して射殺、銃を奪ったあと銀行へ行き、目に入った宇宙人を次々と撃っていく。不思議なサングラスを掛けてみたら、人間に化けた宇宙人を見つけちゃった!となった後、クッションなしに彼らを殺し始める。作劇上のテンポを良くするため、とかで言い訳が効かないレベルで危ない。

その後、建設現場での仕事仲間のフランクに"このサングラスを掛けてくれ!真実を知るんだ!"と詰め寄るも拒絶された挙句、延々と殴り合いを繰り広げ、無理やりフランクにサングラスを掛けさせるネイダ。この殴り合いのシーンがマジでどうしようもなく長い。長すぎる。長すぎて思わず笑ってしまうか、ウンザリする。ここで観客から主人公への感情移入や共感が薄れるというか、ちょっと引いた視点で観れるようになるのも肝だと思う。

アメリカが宇宙人によって支配されていることを知ったネイダとフランクは、お互いの身の上話を始める。話はネイダの父親のことに及ぶ。ネイダの父親が彼を虐待していた話が出た途端、フランクが"それもヤツら(宇宙人)のせいだ"と息巻く。"宇宙人は俺たち人間がお互いに傷つけ合い苦しむのを見て笑ってやがるんだ。ゆるせねえ"

……え?いや……それは……ちょっと関係ないんじゃないかな……まあ……その……貧富の差の拡大とか……搾取構造とか……行き過ぎた消費とか……資本主義やグローバリズムの歪みが巡り巡って一家庭に不和をもたらすのはあるかもしれないけど……全部を宇宙人のせいにするのは……

 

そしてなんやかんやあって主人公たちは、サングラスを作ったレジスタンスたちのアジトへたどり着く。レジスタンスたちによると、どこからか発信されている電波によって、宇宙人は人間を洗脳し支配している。その電波を止めれば、サングラスなしでも宇宙人の正体を見破り、街中にあふれるサブリミナルを看破できるらしい。しかしアジトは警官隊の襲撃によって壊滅、そこから逃げ延びた主人公たちは宇宙人の秘密基地へ潜入、どこからか発信されている電波を止めるため戦う……。

 

という、SFスリラー映画なんですが、正直スリラー要素に関していうと、宇宙人なんかより主人公ネイダのほうが怖い。劇中で一切なにひとつ躊躇しないし、物を考えるとか反省するとか推察する様子がゼロ。見た!知った!殺す!で動いていく。警官を倒したあと、流れるような動きでパトカーのダッシュボードからショットガンを失敬するところなんか「きみ……初犯じゃないよね?」と変な笑いが出る。変な笑いどころは全編通してあるからそれがこの映画の魅力ではある。

 

 本題に入る。「ゼイリブ」を観て、主人公よろしく"世界を牛耳ってるヤツらがいる、ゆるせない、俺たちの生活が苦しいのはヤツらのせいだ"という受け取り方をする人たちが一定数居る。そして最近は、ヘイトクライムや人種差別の場で、この作品の名前を出して「ゼイリブみたいな感じだよ」と自分が嫌う対象を排斥する大義名分のように語る人がいる。主にネオナチなんかがそうだ。それに対してゼイリブの監督ジョン・カーペンターが苦言を呈していた(↓)

30年前のカルト的SF映画『ゼイリブ』がいま、なぜかネットで再び盛り上がる“不快”な事情|WIRED.jp

ことを受けて、私なりに、監督も別に意図していない範囲まで、現代、2018年の私としての作品の読み込みをしてみようと思った。

 

 特権階級による支配、資本主義の暴走、を組み込んで撮られた映画であり、またゼイリブは侵略者による支配と、それへの拒絶を組み込んだ映画である。遠い星からやってきた宇宙人によって支配されるアメリカ。その支配を受け容れる人間もいれば、拒絶し、徹底抗戦する人間もいる。これが何の縮図かと言えば、それはまさしく植民地時代のアメリカだ。ヨーロッパからの開拓者たちを前に、戸惑いながらも物品の交換などで交流するネイティブアメリカンたち、また、故郷を守るため戦いを挑み、征服されていくネイティブアメリカンたち。入植者たちの圧倒的な軍事力や工業力を前に、次々とアメリカは塗り替えられ、ネイティブアメリカンたちの世界、それまで暮らしてきたアメリカは切り取られ続けていった。

 翻って、ゼイリブの世界。かつて自分たちが侵略者だった自覚など、冷戦末期のアメリカ国民にはない。自分たちの国が宇宙人によって脅かされている――という恐怖は、開拓時代にネイティブアメリカンが彼ら入植者に対して抱いた恐怖と重なる。新たな入植者である宇宙人とその支配を、かつて入植者であったアメリカ人はどこまで否定し、拒めるのか。

 

 資本主義とグローバリズムによる、世界各地のライフスタイルの均質化の是非と不気味さもまた、ゼイリブで描かれるテーマのひとつである。大量生産と大量消費、流行に従って皆が同じものを買いあさる時代の裏に、実は人々を操る隠されたメッセージがあったなら――ゼイリブの劇中では、それは看板や商品に仕掛けられた、サブリミナルとして存在する。現実では、それは耳障りの良いキャッチコピーであり、CMであり、与えられた価値観の雛形になるだろう。自分の意思で行動しているつもりが、巧妙に誘導されていることに気付けないことへの危機感を視覚化した結果が、ゼイリブのサブリミナルになる。(余談だが、現代の行動ターゲティング広告において、ユーザーの閲覧履歴を元に興味を持ちそうな広告を表示する、というのが基本の手法だが、そうして表示される広告の中に、ユーザーの閲覧履歴とは無関係に特定の広告を表示し続けていると、そのユーザーはそちらの広告へと興味や関心を持つように誘導されていく、というデータがある。)

 ライフスタイルの均質化、個人が何を欲するかを社会に植え付けられている、というテーマは、映画「ファイト・クラブ」にも見られる。みんなが欲しがるものを自分も買い、現代社会に適さない闘争心や暴力は自ら抑圧し、おとなしく右に倣えで生きていく中で、そうではない生き方を望んだなら――。

 グローバリズムの暴走やライフスタイルの均質化のプレッシャーは、断片的にアニメ「フリクリ」にも描かれている。宇宙規模で展開する大企業。その巨大プラントが街に出来て、そのプラントを取り囲むように、関連企業や社宅、下請けの工場が立ち並ぶ。そして世界中にプラントが建ち、どの街も同じように、プラントを中心とした暮らしになっていく。そうして宇宙中の星はかたっぱしから平均化され、平たくされていく。もはや目的や意味などなく――。

 

ゼイリブでは、主人公は支配からの解放を求めてひたすら突き進む。ファイト・クラブでは、主人公はそこにブレーキをかける。フリクリでは、解放されることなく日常が続く。

 

ゼイリブの最後では、主人公によって秘密のベールを剥がされた世界が、その後どうなるのか、までは描かれない。多くの混乱が予期されるに留まり、主人公の行動がはたしてどう作用したのか、その是非などは分からない。

 

特権階級による支配構造、社会格差に対して戦いを挑む主人公が、ゼイリブでは手放しに肯定されてはいない。かといって、否定されてもいない。

社会に対して変革を求めるとき、暴力に訴えることは中々容認されることではないが、完全に否定されるものでもない。抵抗権や革命権、アメリカ独立宣言のように、権力が間違っているときに、市民はこれを打ち倒す権利を持つ、という風穴は、どこかに用意されている。もし用意されていなくても、市民は革命を起こすべくして起こすだろう。それは本当に起こしてよいのだろうか?その後の社会を、どこまで見据えているのだろうか?

しかし、戦うべきでない、立ち上がるべきではない、とは言い切ることができない。支配を甘んじて受け入れるのも、盲目的に従うのも、それが生存を脅かさない範囲においての話だ。

 

アラブの春以降の、今日の中東の混乱と、政情不安、地獄のような内戦を見て、革命が起きてよかった、と思うことができない。しかし、革命は起こすべきでなかった、とも思えない。なんらかの変化は必要だった。あまりにも変化は大きすぎた。

 

 

 冒頭に述べた、作品の外側にメッセージがある、という件に立ち返る。これはつまり、作中ではそれを明示せず、どう判断するべきかの結論が出ない状態、観客が主人公の行動の是非を判断しかねる状態に持っていくまでが、映画「ゼイリブ」の構造なのだ。敵を見つけた途端に喜び勇んで排除しにかかる主人公には眉を顰めるし、かといって戦わずに恭順すべきだとも言えず、結論が出せない。こうするべきだった、と主張をどちらかに寄せてしまうと、途端にこの映画は重力を失って、ただの変なカルト映画になってしまう。殴り合いのシーンとかめちゃくちゃ長いし。いやほんと……長い……

 

 ゼイリブの感想を書き始めて、最初は単に「殴り合いのシーン長すぎて笑った」とだけ書いて終わりにする予定だったのに、なぜか色々書いて話題が散らかってしまったので殴り合いのシーンの話に戻ります。ゼイリブの、ネイダとフランクの殴り合い、動機はサングラスを掛けさせるためだったのに、延々と殴り合ってるうちに完全に目的を見失ってる感じになるんですよね。戦いが長引いていくと、なんの為の戦いだったか分からなくなるみたいな……戦争もそうだよね……みたいな……いや……こんな……こじつけ方するか普通?あまりにも長くてクドい喧嘩シーンを前に、疑似的な厭戦気分が発生することで、クールダウンが図れて観客が主人公のことを「こいつ危なくない?」と思うキッカケになるのは小技が効いてて上手いと思う。絶対そんなんじゃないわ。主人公ネイダの役者はプロレスラーのロディ・パイパーなんですけど、絶対ロディ・パイパーが戦ってるところ撮りたいから撮ったでしょ長い喧嘩シーン。なんなんだゼイリブ

 

 

 結論が出ないなりに。散々ネイダのことを危ないやつ呼ばわりしてきたけれど、彼は決して特殊なメンタルの持ち主などではない。むしろ世の中の大半の人は、私も含めて、ネイダと同じくらい、単純で、見境が無くて、自分の考えに疑念を持たずに行動してしまう。簡単に結論を出してしまう。ためらいは無いより有ったほうがいい。