少女終末旅行の最終話の一話前の話をしたい

 2018年1月12日。気温はマイナス3℃。これは日記かもしれないし、誰かに宛てた手紙かもしれない。今日はweb漫画として連載されていた「少女終末旅行」の最終話の更新日だった。最終話(第42話)の1話前、第41話にて爆発的に膨れ上がるモノローグの熱量が凄まじかったので、いったい最終話はどうなってしまうのだろう?と期待と不安のようなものを抱えて読み始めた。さて、最終話の感想は一旦端に置いて、第41話の話をしたい。その41話でのモノローグの熱量が凄いと書いたけれど、実際には熱量と呼ぶより、もっと厳密な表現があるように私は思う。書きながらその疑団を拭えなくなったので話を巻き戻す。

 

 少女終末旅行の第41話のモノローグが帯びているもの、それは喩えるならば、よく使われる表現にするならば、ロウソクが燃え尽きる前に一瞬強く輝くこと、「灯滅せんとして光を増す」のような、最期の瞬きのような熱だった。私は何かを考えるときに無数に例え話を作り始めるのを趣味にしているので幾つか追加して持ちだしてみよう。ちなみに無数の例え話を次々と持ち出す理由は何かというと、より細かく正確なニュアンスを表現したいからだ。この細かく正確なニュアンスというのを求めるのは、物事の在り様をつぶさに観察したいがためでもあるが、自分がその在り様に感じたもの、言葉になる前の感情を追いかけ続けているからでもある。その向きが強いときもあるし、そうでないときもある。何かに夢中になるとき、さして夢中でもない時にも、厳密にはどうなのか?を際限なく考え続けている。それが結果として何を語るにも多くの言葉と表現を必要とする。多くの言葉と表現が必要とされ、幾度も重ねられ、角度を変え、迂遠になり、冗長になり、いったい何を考えていたのかぼやけることで、そこに結ばれる像は逆にくっきりとしてくる。そのくっきりとした像が私にとってだけくっきりとしているのではないかという恐れがそこに付きまとい、私はそれを他者にとっても確認のできるくっきりとした像に落とし込むためにピントを調整し続ける。

 やたらと長い脱線のようでいて実はこの一連の文章は少女終末旅行の第41話のことを考える補助線になっている。なっているといいが。ひたすら判読性が低い。

 第41話のモノローグが帯びているものを喩える段に戻る。灯滅せんとして光を増す、以外にそれを喩えるなら。それは沈思黙考するとき、瞑想するときに、かえって周囲の環境音などが細かく聞き取れるようなものだ。それは寒い日に人と手をつないだとき、その人の手を温いと感じるような。それは強い恐れを前にしたとき、かえって湧き立つ勇気のような。それは鉛筆で紙を一枚黒く塗りつぶして遊んだ子供がその紙に消しゴムで引っかき傷のごとく細い線を描くような。それは祈るときに祈り以外の不純な気持ちに気付いてしまうような。それは人が亡くなったあと親しかった人たちの記憶の中で故人が息づいていることに語らいの中で触れて喪が明けるような。それは死んでいく人の胸に耳を当ててかすかな心音が消えていくのを感じるときに未だ生きていることを強く感じるような。それは部屋に二人きりでいるときに相手の立てる物音にふいに注意が向いてその音を聞き取り続けるような。それは今まで壁に飾っていたカレンダーを片付けるときになってカレンダーに施されていた意匠に気付くような。それは知っていたはずなのにまるで知らないみたいに過ごしていたような。

 そんなものだ。それは熱じゃない。光じゃない。音じゃない。それは本当にただ失われていく過程だ。それはどんな形をしていたエネルギーも無へと近づき続ける時間、その時間を無限に細分化したときに生まれる、理論上の永遠に対して感じる感傷だ。いつか、この宇宙が冷えて小さくなって消えていくときみたいに、宇宙に内包されるすべては様々な形で親である宇宙の未来の模倣をして先立っていく子供たちであることを知ったとき、子供たちの垣根が壊れて消えて、すべては同じく等しく同じ胎に居るのを、まるで悟ったみたいな気持ちで理解したときの、主観的な時間が現実を無視して恐ろしい分解能を発揮して自分では到底追いきれない未来に手を駆ける無限への感動と畏怖だ。それは本当にただそうなんだ。それは理性と知識が正しく統合して行われた理解の帰結として、最後に待っている、人間の最後の思考だ。人は終わりを考える。その考えにも終わりがある。

 

 さて、そういうものを帯びていると私が感じた少女終末旅行の第41話のモノローグの話を始めよう。この物語の二人の主人公、チトとユーリは旅をしてきた。核の冬のようなポスト・アポカリプスの、文明が死に絶えてしまったあとの時代を、生き残りの少女ふたりは一緒に旅をしてきた。ひたすら文明の残滓の建造物を、上へ、上へと昇っていく旅を。その過程で、乗っていた車や、持っていた本と日記、わずかな食糧と燃料を失ってきた。ふたりは今、塔の中にいて、その階段を昇る。そして遂にランタンの灯が消える。暗闇の中で二人は手をつなぐ。(先ほどモノローグの帯びるものとして一例に出した、寒い日に人と手をつないだとき、というのは、比喩ではなく直喩になる)。手をつないだままチトとユーリは塔の階段を昇り続ける。途中で手袋を外して直に手を繋ぎなおす。(この、直に手を繋いだ瞬間から会話が途絶え、チトのモノローグが膨れ上がっていく)。

 

 闇の中ふたりで階段を昇る。いま二人には二人以外の何もない。つなぎあった手を互いに握り返す。そしてチトのモノローグだったはずの、漫画のコマの中の、つないだ手から出ている吹き出しに、ユーリの台詞が混じる。二人はいま一体化し、ひとつの存在のように伝わりあう。チトのモノローグは語る。「私たちはもう…ひとつの生き物になってしまった」

 そしてチトのモノローグは続く。初めから本当にそうだったとすれば、私の手、ユーリの手、空気、建物、空、触れ合っている世界のすべてが、私たちそのものみたいだと。

 

 いま世界の皮膚は融けている。ふたりしか居ない世界で、ふたりは同じ世界の、同じ空の、同じ建物の、同じ空気の、同じ闇の中、手を繋いで階段をのぼる。その中でチトの主観的な世界の輪郭はどんどんぼやけていく。自分とユーリの間の隔絶は消えていった。同じように他の全ても消えていく。闇を表す黒いページの中に、「私たちそのものみたいだ」というモノローグと、チトとユーリの姿だけが描かれる。描かれたふたりの姿に、他のすべて、描かれなくなった世界が詰まっている。

 

 そして唐突に光が差して闇は晴れる。モノローグは止み、ふたりは再び声を出す。光の中、塔の最後の階段を前に、ふたりは立ち止まり、お互いの手を強く握る。ここが第41話の引きになる。この光の中の引きが、今度は読者をふたりへと一体化させる。チトとユーリの感じる不安、どこまでも果てしなく続くかに見えた闇の中の階段の先にあるものへの好奇心を、読者に強く共有させる。最終話を前にして、最終話の一話前である第41話は強い演出効果を持った引きで幕を閉じる。

 

 私はここまで続きの気になる「最終話の一話前」に触れたことで、いたく感動した。率直に言うと、簡潔に言うと、「少女終末旅行の最終話の一話前の第41話すごい好き」。それだけのことを、できるだけそこに感じた心の本当の動きを追いたくて、この記事を書いた。最終話の感想はあえて書かない。第41話を読んだあと、最終話を読まなくても構わないほど(語弊がある)、第41話は素晴らしかった。

 

 追伸。蛇足になるが、最終話である第42話の、42という数字は、SF作品「銀河ヒッチハイク・ガイド」に登場するフレーズ、”生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え”に対して示される不可解な解答、「42」と同じである。また、チトとユーリという二人の主人公の命名元は、人類初の有人宇宙飛行を成し遂げた宇宙船、ボストーク1号の乗組員、ユーリイ・ガガーリンと、バックアップクルーである、ゲルマン・チトフから取られているのではないか、と思われる。この追伸による補足が何になるのかを私は知らない。もしかしたら、これから少女終末旅行を読む人にとって、その知識がまるで作品の一部のようになるのかもしれない。今日の気温がマイナス3℃だったことは、私にとってまるで少女終末旅行の最終話という作品の一部のようだった。ともすれば私も作品の一部かもしれない。まだ何もかも読み終えていない、あなたですら、その何かの続きや終わりの一部になりうるのかもしれない。

信念と抑圧

 私は自分が何について言及し、何については言及しないかを明確に決めようと心掛けている。その基準になるのは自分の信念だ。私は私の信念を元に、巷での話題のうち、これには抵触しないと決めたものには触れず、話そうと思ったことだけを選択して話そうとする。

 

 ある人がこう言う。「言及すべきでないことに言及しない人は信頼できる、という法則や考えは普遍的なことだけれど、これはすごく他者に対して抑圧的な考え方だから良くないよなあとも思う。」

私は私の信念が及ぼす影響として、他者に対して抑圧的な部分があると認識していなかったので、これを受けて、改めて信念と抑圧の関係について考えを深めてみようと思った。

 

 インドでは牛肉と牛革の産業に携わる人が多く存在し、彼らの多くはイスラム教徒である。一方、現在インドの首相であるナレンドラ・モディ氏はヒンドゥー教徒である。ヒンドゥー教では牛を神聖な生き物としているため、現首相による新しい法律の施行により、牛の畜産や皮革加工は大きく規制を受けた。これによってインドでは多くのイスラム教徒が失職する問題が発生している。

 このケースでは非常にわかりやすく、首相の信念がイスラム教徒を抑圧している。牛は神聖であるため食べてはならず、また皮革の利用も許されないという信念の元に、牛に関わる労働者は抑圧され、仕事を失うことになった。これは信念が内的なものではなく外的な強制力として発動しているケースである。ではもう少し迂遠なケースへと移りたい。

 

 ヴィーガンは倫理的な理由から菜食主義と皮革製品の不使用を徹底している。その理由は動物愛護の観点からである。ここに、近年新たに「人類の文明存続モデルとして、畜産は不適合である」という観点が登場した。平たくいえば、牧草を育てて牛に食べさせてから、その牛を人が食べるのは大きなエネルギーのロスが発生するのに対して、植物を育ててそれを人が食べるほうが遥かにエネルギーのロスが少ない、という話である。つまりヴィーガン生活様式というのは彼らにとって、人類の生活様式として最も正しい形の実践に他ならない。この様式に則らず生活する、非ヴィーガンの人々は、動物愛護の精神に欠け、人類の文明存続に無関心である、と見做されることになる。

 これに対し、私は個人的に抑圧を感じる。けしてヴィーガンの人たちが、私に菜食を強要したり、私が皮革製品を買うのを邪魔するわけでもない。にも関わらず、私はヴィーガンの思想と行動が、非ヴィーガンである私に対して抑圧的であると感じてしまう。これはなぜだろう?

 

 人は自分の行動を正当化する際、そこに一定の根拠を求める。ないしは築いていく。そこにあるのは「こういった行動は正しい。よって私はその行動をとる」という裏付け、行動の強化である。これが個人の行動の範囲である場合、単にその人の信念や生活様式である、という範囲は出ていない。

 これが自身の行動だけでなく、他の人の行動もそれに倣うように強制した場合はどうだろう?それは個人的な信念や生活様式の範囲を超える。先に述べたインドの牛肉と皮革産業の現状のように、ある一定の集団が求める行動の正しさが、他の集団の行動を間違ったものとして抑圧する。こういう場合に抑圧された集団は「抑圧されたと感じる」程度ではなく、より深刻な問題として現実に向き合わざるを得ないだろう。

 

 それならば、と私は問う。ヴィーガンの人々は、非ヴィーガンの人々に対して菜食主義を強制していない。私もそういった影響を受けていない。なのにどうして私はヴィーガンからの抑圧を感じるのか?

 

 これは私が思うに、ヴィーガンの人々の絶対の菜食主義が、個人的な信念でありながら個人的なものではなく「一般化された」信念であるからだ。彼らの行動理念、信念の裏付けには、現実的な問題と倫理観が用いられている。そこに掲示されている倫理観と現実の問題への対処法に私は合致しない。私は肉を食べ皮革製品を使用する。つまり私はヴィーガンの人々の掲げる信念に否定されているのだ。私は、私の行動が彼らの信念と照らし合わせて間違っていると感じる。ここに抑圧がある。けして現実的に抑圧されていないというのに。

 

 話を始まりに戻そう。言及すべきでないこと、を個人的に決めている私が、それを守って生活することは、私の生活様式であり、私の信念である。私はこれを他者に対して強制することなく実践している。しかし、これを「言及すべきでないことに言及しない人は信頼できる」という感覚および価値観に照らし合わせたとき、そこには、抑圧として感じられるものが発生する。それは「言及すべきでないことに言及する人は信頼できない」という対立的な他者が設定されてしまうからだ。なるほど確かに私の信念はそういった人たちを正しくないものとして抑圧しているのだろう。実際に強制しているかどうかは既に問題でない。

 「何が正しいか」を提示した時点で、そこにそぐわない「正しくない人たち」を浮き彫りにし、そこに対して抑圧的であると捉えられてしまう働きを私はここに見る。この一連の文章の冒頭で私が述べた、私が何を話し何を話さないかの基準を持つという信念は、それ自体を表明したことで、既にある形の抑圧を生んでいる。

 

 ここで私は、また一つの疑問を持つ。もし、私が何も表明せず静かにそれを実践しているだけの場合、そこには全く抑圧が無いのかどうかも疑わしくはないだろうか?確かに私は言及すべきでないことに言及する人々への、僅かな抑圧の気持ちを持たないとは言い切れない。私以外の人々が私と同じ基準に則って言及する内容を選別することを良しとする感覚が、まったくないとは言い切ることができない。

 

 これを受けて私の認識は変容する。なんらかの形で信念が存在し、それが行動の形を決めるとき、それは個人的な範囲に留まるものではなく、どこかで他者に対して影響を及ぼしている。以前までの私が覚えていた、「個人的な信念は個人的な範囲を出ない」という認識は甘いものである。しかし、「言及すべきでないことを言及しない人は信頼できる」という価値観が、「他者に対して抑圧的であるから良くない」ということに対しては、それを抑圧的であると捉えた場合にしか「良くない」と評される効果を発生しない点、ならびに「抑圧的であることは悪いことなのかどうか」を私は疑問に思う。そして抑圧的であることの是非と同時に、全く抑圧的でない人の在り方というものは可能なのだろうか?と考える。おそらくだけれど、徹底的にすべての他者から抑圧されることをよしとするか、すべての抑圧を拒むことができず抑圧されきった人だけが、他者に対し抑圧的でない人なのだろう。これを皮肉と呼ばずに何と呼ぶのかを私は知らない。

よく間違い電話が来る

 どういう加減でそうなるのか、私にはさっぱり分からないが、私の元へは頻繁に間違い電話がやってくる。頻繁に来ると段々こちらも身構えてしまうもので、見慣れない番号や非通知でかかってくると最初から「また間違い電話なんじゃないか?」と頭をよぎってしまう。

 そのうち幾つか印象に残っているエピソードを書き起こしてみる。

 

 

ケース1

 電話が鳴る。開口一番に相手が叫ぶ。

「五郎丸さん今どこにいるんですか!?」

「えっ?」

あまりの剣幕と名前のインパクトに反応が遅れる。

「あの、違います、五郎丸さんじゃないです……」

「えっ!?じゃあ五郎丸さんはどこに居るんですか!?」

知らないよ!なんだその面白い返しは!

「あのう……番号を間違えているんだと思うんですけど…」

「あっ、失礼しました……」

 

 

ケース2

 電話が鳴る。

「はい、はしごです」

「◯△不動産の池谷です、藤枝さんですよね?」

「違います、藤枝さんではないです」

「え、番号は合ってますけど」

「いや、間違ってますよ」

「あー、失礼しました」

突然一方的に切られる。ほどなくしてまた同じ番号からかかってくる。

「◯△不動産の池谷です、藤枝さんにご案内していた物件の〜」

「あの、藤枝さんではないです、先程間違い電話でこちらに掛けられてますよね?この番号は藤枝さんではないのでよく確認してください」

「番号合ってるんですけどね」

「間違ってますよ」

「んー、失礼しました」

また一方的に切られる。直後にまた同じ番号から着信。

「◯△不動産の池谷です、藤枝さんいらっしゃいますか」

もう返事をせずに切る。その後また同じ番号から複数回着信。もう嫌になり着信拒否する。

その暫く後に違う番号から着信。

「◯△不動産の池谷です、藤枝さんにご案内の件で」

こいつ信じらんねえ!違う番号でまた掛けてきやがった!!怖い!!すぐさま切って着信拒否に設定する。その暫く後にまた末尾が違う似たような番号から着信が来る。応答せずに着信拒否に放り込む。ようやく静かになる。

 

 

ケース3

電話が鳴る。

「〜〜〜〜〜〜?」(いきなり早口の英語で話しかけられる)

「あ……え……?」

全然聞き取れずに全く返事ができない。まごまごしている間に相手のほうから切られる。発信元番号で検索するとロンドンからの電話だった。なんで?

 

 

ケース4

電話が鳴る。

「壊れたんですけど」

何が?

「壊れたんですけど!!」

「あの、なんのことか分かりませんし、おそらく間違い電話ですよ」

「それが客に対する態度か!?」

「間違い電話ですよ!」

「なめてんじゃねえぞ!!!」

「番号をよくお確かめください!」

「……あっ、すみません……番号間違えてました……」

「気をつけてください」

 

 

 余談。間違い電話とは別に人違いコメントみたいなものが、一昨日このブログに来た。内容は

「◯◯さんのブログだと思って読みに来たら別人のしょうもない自分語りだった。残念」

知らないよ!人違いしといてコメント残してく神経も謎だよ!というか私のブログなんだから私のこと書いてるに決まってんだろ!人の日記を覗き込んどいて「◯◯さんの日記じゃなかった!お前は誰だ!俺はお前のことなんかどうでもいい!」といきなり言われた感じでちょっと面白かったからズルい。でもムカつくのでそのコメントは削除した。

自身の鬱病の治療について

 できるだけ正確に簡潔に記すことを誓います。

 

 私の状態:極めて重度の抑うつ状態にある。

 受けている治療:投薬とカウンセリング。

 生活:無職であり昼夜の逆転した不規則な生活。

 病名・診断:鬱病の診断は出ていない。アスペルガーADHD、パーソナリティ障害等の検査も受け、どれにも該当せず。

 自身の認知:極めて悲観的に偏っている。また、普通の人が送る普通の生活というものへの強い憧れと執着があり、それと自分の現状との落差によって苦しんでいる。

 

 自身の現状への理解を助け、また、これを読む人への伝達の一助として以下を援用する。

 

 社会心理学者ヒギンズによる「セルフ・ディスクレパンシー理論」というものがある。

これは、人の動機付けや、それによって発生する感情の違い、有体にいえば個人個人の持つ偏りを、目標と現実の差異によって説明する理論である。

 このモデルでは自己像を以下の三つに分類する。

現実自己……現実の自分自身の状態。これは必ずしも事実を意味するわけでなく、本人が「自分の状態」として認識しているものが現実自己となる。つまり認知の歪みによって、間違った思い込みをしている場合、それが現実自己になる。現実モデル。

理想自己……本人が望む自分のかたち、もっと良くありたいという願望や理想を理想自己と呼ぶ。理想モデル。

当為自己……本人がこうあるべきだと感じる義務感や責任感により描かれる自己像のかたち。社会的規範等に則った正しい在り方、を求めた自己像。当為モデル。

 

 これら三つの自己像の差異が大きければ大きいほどストレスは強くなる傾向にある。

 

 私の場合の現実自己は、無職で重度の抑うつ状態にあり、大学への進学を希望するも学習ができず、就労も叶わず、創作活動もできない状態。

 私の理想自己は、大学進学のための学習をしながら、就労し、創作活動も行うこと。または、それらのうちどれか一つでも叶うこと。

 私の当為自己は、大学進学か就労のどちらかを選び邁進すべきである、というかたち。

 

 私の現実自己の状態を私ができるだけ平易に適切に認識すると、今の状態では何を行うのもよくないほど鬱が悪化しており、治療と休養が必要である。

 私の理想自己は、私の現実自己の状態を認識できておらず、無理にすべての欲求を叶えさせようとしているため破綻している。

 私の当為自己は、私の現実自己の状態を認識できておらず、また、その有り様を否定している。実際にはやるべきではないことを、やるべきこととして強要し私の現実自己との間に大きな隔たりを設けている。当為自己は鬱病の治療に対しても懐疑的であり、服薬とカウンセリングへの意義を見失っている。

 

 これらの差異をセルフ・ディスクレパンシー(自己矛盾)という。この自己矛盾の大きさが、主に当為自己の苛烈な自己嫌悪による暴走、無理に社会へと適合させようとすることによって拡大を続けており、ストレスが増大している。

 理想自己と現実自己の差異は、失望、失意、不満、落胆、悲しみを発生させる。

 当為自己と現実自己の差異は、社会的な何らかの制裁を予期させ、不安、焦燥、恐怖、緊張、動揺を発生させる。当為自己そのものが現実自己への怒りを持つ。

 

 これを受けて私が考える私の治療のプランは以下になる。

1、診察とカウンセリング、服薬を続けること。

2、理想自己を縮小し、実現可能な範囲の小さな目標へと設定しなおすこと。

3、当為自己を縮小し、べき論から現実自己を解放するために、こうあるべきだと思う理想や自己像を、現実から乖離させるような思考を避けること。また、そういった乖離の働きを助長するような情報を知覚しないようにすること。

4、十分な睡眠と食事と適度な運動をストレスのなく無理のない範囲で実行すること。

5、生活は昼夜逆転しており不規則だが、無理に規則正しい生活を自分に強要しないこと。

6、常にセルフ・ディスクレパンシー理論における自己像の3つのモデルを想起し、自分の内外で発生するストレスのうち、どの差異を何が助長しているか、またどの自己像が現在どのような状態にあるか書き留めることで自身の現状を記録し認識し続けること。それによる当為自己の矯正を図ること。

 

 

 以上が私の現状になります。

2017/11/10の日記

 今日はポーズマニアックスの90秒ドローイングを20回やった。難しかった

 

 からあげ6個食べた。

 

 友達がtoldというバンドをおすすめしてくれた。

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 ギターかっちりしててメロディ抑え目で良い~好き~。好きになった。

 

 友達が「お前LOSTAGE好きだしtoldも好きそうじゃない?」という流れで教えてくれたので、さっそくローチケとかで公演情報を探す。なんか対バンしてそうな気がした。そうしたら昨日ちょうど半蔵門でのLOSTAGEのライブにtoldの鈴木さんが参加していたので「ニアミスー!!」ってなった。今後の動向を追っていく。

LOSTAGEとtoldとage factoryの大阪での公演情報?の残滓みたいなものが検索に引っかかったのだけど、いつライブやったのか、それとも今後やるのかどうかが分からなかった。好きなバンドが3つも一堂に会するライブイベントが存在する可能性が掲示されて元気出た。仮にもう開催されて終わった過去のライブだとしても想像するだけで嬉しい。

 

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漫画「総合タワーリシチ完全版」を読みました

総合タワーリシチ 完全版(上) (ヤングキングコミックス)

総合タワーリシチ 完全版(上) (ヤングキングコミックス)

 
総合タワーリシチ 完全版(下) (ヤングキングコミックス)

総合タワーリシチ 完全版(下) (ヤングキングコミックス)

 

 

 ……良かった……。

 

 

 上巻の描き下ろしが下巻の最終話以降の後日談になっているので、これから初めて総合タワーリシチを読む人はそれだけ気を付けてください。上巻の本編を読む→下巻の本編を最後まで読む→上巻と下巻の描き下ろしを読む、の流れを推奨します。

時系列的に考えると、下巻の巻末に収録するべきだった内容が、上巻の巻末に収録されてしまっているのは、おそらくページ数の都合等で仕方ないんだろうなとは思います。知らずに上巻の描き下ろし読んだら混乱すると思う。私もインターネットを通じてアドバイスがもらえたので下巻まで読んでから描き下ろしに進みました。ありがとうインターネット。ありがとう人類。

 

 明るくて楽しい漫画でした。この作品は百合漫画なんですけど、そうであることに目をつむり、百合漫画であることを知らないつもりで読んだら「え……うそ?そんな空気に!?うわーーーっっ!!」とかなり純粋にトキメキを覚えて読めました。普通の学園コメディ漫画っぽさが下地にあって、ドタバタしてて楽しい空気の延長線上にいつか百合が来ることが予期できたから、あえて、百合漫画だと知らない風に装って入るのがすごく良かった。そういう読み方がおすすめです。私は百合だと知らずに百合作品に触れて不意打ちを食らいたいんだ……。

最近聴いてる音楽の話 (Safeplanet、SCOOBIE DO、Feodor Dosumov)

 ブログゆるめに短く書くのが更新癖を付けるのに良いなって思った。あんまり気合入れて長文書いたり、内容が自身の心をえぐるやつだと何日も書けないので。

 

 というわけで最近聴いて気に入った音楽の話をします。

 

 最初はタイのインディーロックバンド、セーフプラネットの話。

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 聴き始めたきっかけは、元々私が好きなLOSTAGEというバンドがタイのライブツアーでSafeplanetと対バンしたことで、LOSTAGEのボーカルの人が自身のブログにて彼らを紹介していたこと。一聴して気に入った。

 粒立ちがよくて聞き取りやすく骨太なドラム、流麗なギター、が良いのと、私がタイ語をわからないおかげで不思議な響きとしてボーカルを聴きとっていて、メロディとリズム自体に宿っている民族的なニュアンスに不思議な響きの言葉が乗っかることでマジでありえないぐらい爽やかさを感じる。民族的な音楽っぽい感じ、もそんなに強いわけじゃなくて、基本は上手でポップなロックサウンドだというのもあって聴き疲れしない。でも個性は強い。タイですごく売れてる、というのも納得。

 

 

 次はスクービードゥーの新譜の話。

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 最近発売されたSCOOBIE DOの新アルバム「CLACKLACK」がとても良かった。

私はガングレイヴのEDでしか彼らを知らなくて、でもEDだった茜色が燃えるときという曲は本当に好きでふとした拍子に何度か聴き返すお気に入りの曲だったところ、最近「そういえば好きな曲なのに自分はスクービードゥーの他の曲やアルバムのこと全然知らないな」と思い現在どんな活動をしているのか調べ、この新譜の存在を知り、リードトラック的に公式で公開されていた曲Cold Dancerを聴いた。

 もうめちゃくちゃに良かった。踊れる、乗れる、という表現がぴったりハマる。それは楽曲だけではなく歌詞もだった。小気味よさ、かっこよさ、がストレートに音と言葉で突っ込んできた。PVもシンプルでよかった。

 

CRACKLACK

CRACKLACK

 

 

 

 

 閑話休題。よく人と好きな音楽やおすすめの音楽家などの話をするときに、youtubeなりストリーミングサービスなりのURLを貼りあって試聴を促すことがある。その際に自分は、「公式がアップロードした音源だけを貼ろう」と考慮することが多い。アーティストやレコード会社の公式チャンネルや、VEVO等で公式から配信されたものかどうかを確認してから引用する。

 なぜかといえば、それは、非公式にアップロードされた音源を周知のために使うのは憚られるというのは勿論あるが、それ以上に「公式のアップロードした音源へのアクセスが妨げられる」ということが大きい。

 アーティストにとって、レコード会社にとって、インディーズのレーベルにとって、公式の音源がどこからどのように、いつアクセスされて、合計の再生回数がどのように推移しているか、どこまで増えていくか、という情報は非常に大きな判断材料や売上の予測に繋がる。公式音源のアクセス経路と再生回数は音楽活動を生計にする人にとって大切な情報なのだ。それを損なってしまっていいのか?いや、よくない。そう私は思っている。だから私は好きな音楽の話を人とするときに、相手を公式の音源へと誘導する。

 

 

  最後はロシアのギタリスト、フョードル・ドスモフ。

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 彼を知ったきっかけは無いに等しくて、ある時唐突に「ロシアのフュージョン聴きたい」と思って探し始めてすぐにFeodor Dosumovが出てきた。探したら真っ先に出てきたということはその道で今最もホットなんだろうと調べて聴いてみる。気に入る。

 あとすごく失礼な話をするんだけど、フュージョンあんまり詳しくないからどれ聴いても同じに聴こえる現象を私は抜け出せていなくて、ウェザーリポートとカシオペアの区別はつくし、そのどちらも好きなんだけど、フュージョンというジャンルの音楽はどれを聴いても、その国らしさ、を聴き分けることができない。フョードル・ドスモフがロシアの人なのに彼の曲にびっくりするくらいロシアの特色みたいなものを感じられなくて、フュージョンってどの国の人が作って演奏しても国境を越えて万国共通ジャンルみたいな近似値を取りやすいのかな……?と思った。フュージョンというジャンルに詳しくなったり、音楽への造詣がしっかりと深まれば違いが分かるようになるんだろうけれど、自分にとっては未だに霧や靄の向こう側にフュージョンがあることを再確認した。ロシアっぽいフュージョン聴こう!と思ってロシアンフュージョンを探して幾つか聴いてみて、どれもロシアっぽくないの、ちょっとした恐怖体験だった。ロシアっぽい音のフュージョンを知っている人、詳しい人、連絡ください。そもそもフュージョンに限らずロシアの音楽に疎いのをどうにかしたい。

 氏が兄と共演している演奏も好き。

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