ハンカチ

よく映画見て泣いちゃうから涙拭き用のハンカチも用意するんだけど

 

白っぽかったり明るい色のハンカチだと光を反射して目立つから他のお客さんの邪魔かなと思ってできるだけ暗い色のハンカチにしようと思ってて

 

その話を人にしたら「赤みを帯びた黒だと普通の黒よりも闇の中に溶け込むよ」って教えてもらって

 

そういえば忍たま乱太郎でそんな話聞いたな

 

忍者の装束は赤墨色とか赤銅色で柿染の濃いやつみたいな赤っぽい黒って聞いたな

 

一理あるなって納得して

 

赤みを帯びた黒のハンカチを映画見るとき用に持っていった

 

そしたら

 

想像以上に赤みを帯びた黒色のハンカチが闇の中に溶け込んでて

 

映画見てる最中にハンカチどこ行ったか分かんなくなった

 

他のお客さんどころか自分でもハンカチ見えなかった

 

鑑賞の邪魔にはならなかったと思う

 

あと人の真似をして箇条書きでブログ書いてみたら楽だった

ブログ再開して二日目にして書くことが全然思いつかない

 やっぱり思うんですけど何事もブランクが空きすぎると腰が重くなる。長いことやってなかったことは急に続けられない。

 

 Twitterの話でもします。RTの使い方のこと。

あるツイートを見た人が、自分が不快に感じたり、怒ったりしたあとに、その不快に感じたツイートをRTしてから、リプライやURL引用ではなく独立したツイート形式で、文句や罵倒をする、という使い方をしていることがあって、私そういうRTの使い方すごく苦手なんですよ。もっというと、そういう、自分が好ましく思っていないことを周知したり拡散したりしてから、その話題に関して口汚く罵る人、というのがすごく苦手で、どうしてそんな不毛なことするんだろう?と疑問に思っている。

 彼らがそういうRTの使い方をする理由はいくつか考えられる。

 ひとつめの理由、自分の感じた苛立ちを人に共有してもらいたい、という共感を求める気持ち。これはよくあることなんだろうと思うのでわかります。わかりますが、品性に欠けるので好きではない。

 ふたつめの理由、自分が不快に感じたものに対して苦言を呈することで、自分のスタンスを表明している。また、そのスタンスを表明することで周囲に対して「自分はこういう人間なんだ」と自己演出をしてポーズをとっている。同じように、自分をよく見せるために、知的であることをアピールするために何かを批判する。これもわかります。わかるけどやはり悪手だと思うし、批判するならば、丁寧に上手な言葉の使い方をしてもらいたい。なによりも該当するツイートをRTせずにリプライなりURL引用なりで相手に届く形でやってほしい。相手に察知されると面倒くさそう、会話をしたくない、という怯えや自身への便宜的配慮はあるのに、周囲に不快なものをRTして見せてしまうところに、醜悪な欠落を覚える。

 

 そんな感じでした。単純化すると、私は攻撃的、恫喝的な言葉の使い方をする人が苦手なんだと思う。私自身も言葉が悪くなるときがあって、そういう汚い言葉の使い方をしたくないと折に触れて思うから、反面教師としては彼らのような「自分が嫌だと思ったものを高く掲げてみんなに見せびらかしてから文句を言う」人たちを視界に入れることで、ああ、こういう言動や話題の発生の仕方は嫌だな、と戒めにしていけばいいのかな、と。

 この話題のオチは、自分自身が何か嫌だなと感じたことを話題にしている、という、ミイラ取りがミイラになっているところです。言及しなかったものが生還者!

 

 

ブレードランナー2049観ました

 映画ブレードランナー2049を観ました。これから観るひとのために、ネタバレを避けるためできるだけ内容に触れないようにしようと、ネット上に何も書かないようにしています。面白かった、おすすめです、とだけ言いたい。そんなわけで語るのを我慢してます。


 そうしたら誰か観終わった人と語り合いたい気持ちが高まって、ウオオ誰か早く私とブレードランナーの話をしてくれ!と勢いで友達3人誘って観てもらってきました。観終わったあとの会話が盛り上がって内容の考察が多角的にバンバン飛び出してすごい楽しい。友達に映画見ながらノートに高速でメモ取る人がいてその人が分析的に感想言ってくれたのでよかった。議論すると意見が割れまくるのが素晴らしい。次の文学フリマブレードランナー評論本を出したい。


 久しぶりにブログ書いたら、自分の文章こんな感じだったっけ?と違和感がすごい。今日からできるだけ毎日なにかしら書いてブログ再開します。今日はここで終わります。

自分に宛てて

二次試験が近い。一年間しっかり勉強できたか、といえば悔いはある。悔いどころか、勉強する余裕が本当になかった。本当に大事件に次ぐ大事件、ひっきりなしに襲いかかるトラブル、ボロボロの体調(肺炎、虫垂炎、謎の耳鳴り)、やりたいことがなにひとつできていないような閉塞感、体力を根こそぎ奪い取っていく毎日。太平洋の真ん中に建てられた防波堤になった気分だった。

自分の認識と裏腹に飛躍の一年でもあった。今まで手をつけずにいたことに次々挑戦できたし、新しい、良い結果に恵まれた。2015年には同人誌を2冊出せて、2016年は0冊だったのが心残りなので、今年は2冊を目標にする。たぶん今年も穏やかで平和な一年間というのは望めそうにないので、慌ただしい中で時間を確保して勉強と創作に充てることを覚える。

なんか自分の選択って一生すげー苦労しそうだし後悔も何度となくしそうだけど、まあいいかな、みたいに思い始めてる自分がいて、覚悟半分でそう思えていて、もう半分は純粋に好きだから苦労してもいいな、になる。もっと欲を出して、苦労を軽減する努力、後悔も減らす努力、先見性の獲得、っていうところまで視野に入れて肝に命じておくべき!と思いつつも、そんな精密に器用に生きてこなかったから今があって、でもそれは悪いことばかりじゃないし、

今だって自分は丁寧に生きたいと願いつつ、ちょっと微妙でも許せるように変わりつつある。

映画『ブルーに生まれついて』を観た感想

 映画『ブルーに生まれついて』を観てきました。

映画『ブルーに生まれついて BORN TO BE BLUE』オフィシャルサイト

 

 ジャズ演奏家チェット・ベイカーの”半”伝記映画で、彼の生涯に実際に起きたこと、結局訪れなかったこと、と事実と創作を織り交ぜて構成された作品。劇中の演奏シーンでは、チェットを演じるイーサン・ホーク自らが歌い、トランペットを吹いている。

 

 監督のロバート・バドローはチェット・ベイカーの大ファンで、今作以前、既に2作の映画を撮影しており、

(2004年の『ドリーム・レコーディング』、1940年代を舞台に華やかなジャズシーンの裏側で起こる殺人や麻薬の売買を描いた短編映画で、チェットにまつわるエピソードを織り交ぜている)

(2009年の『チェット・ベイカーの死』、1988年アムステルダムのホテルの窓から転落死したチェット、その死の謎に迫る作品。この映画でチェット役を演じたスティーブン・マクハティが、『ブルーに生まれついて』ではチェットの父役を演じる)

その2作品の制作中に新たに監督が知りえたチェットのエピソード、深まったインスピレーションを元に、満を持して制作されたのが、今作、『ブルーに生まれついて』になる。監督のチェット・ベイカーに対する熱意、チェット伝記映画の集大成とも言える。

 

 とにかくひたすら画が痛々しくてかっこいい映画でした。チェットは幼少期に前歯を一本欠いていて、トランペッターとしてのハンディキャップになるそれを逆に持ち味にすることで乗り越えていたんですが、23歳頃からヘロイン中毒になってしまい、その後に麻薬関係の喧嘩で残りの前歯をほとんど折られ、トランペッターとして再起不能に追い込まれてしまいます。

 それでも吹くことを辞めない。まだ治療の途中で止血も満足にできていない状態で、バスルーム、バスタブの中に座り、痛み止めのメタドンを服用しながら必死にトランペットを吹くチェットの口から止めどなく血が溢れてくる。溢れだした血はトランペットの水抜きやベルからも容赦なく噴き出して、彼もバスルームもトランペットも血まみれになっていく。必死に痛みをこらえ、満足に演奏ができないことに苛立ちながらも、泣くでも怒るでもなく吹き続ける。壮絶な練習シーンでした。

 この映画はひたすらワンシーンワンシーンの撮り方がかっこいいんですよ。ジャズ界の寵児の没落と再生の物語なんですが、映画全体にむせ返る青春と衝動は完全にロックそのものでした。これロック映画なんじゃないか?いや私がジャズに対して抱いてたイメージが、おとなしくてオシャレ、みたいなステレオだっただけで本来こういうものなのか?

 

 ヘロイン中毒から抜け出せないし融通きかないしで世話のやけるチェットを、恋人、かつての古巣の元社長、保護観察官、プロモーターが導いて、やっぱチェットのこと放っておけないよね、と優しく見守って更生させていく模様のヒューマンドラマもすごく良かった。良いからこそ、彼らの期待を裏切ってしまうチェットの悲哀が際立っていきます。

 

 よくある薬物中毒モノ、更生モノ映画、または今作のようなジャンキーだった人物を題材にした伝記映画によくある、「薬物=絶対悪」「薬をやめられない=心の弱さ」という価値観、描き方は、基本的にそれ一辺倒になってしまう傾向があると思います。

 今作はそうではない。それは主演のイーサン・ホークの演じ方に強く表れています。

確かに薬物中毒によって心身を蝕まれ、事件を起こし、家庭や人間関係を破壊してしまうことは悲劇だし、薬物の乱用が社会的に認められるものではない、というのは確かだと思います。問題は、なぜ、薬物中毒者は、薬を求めているのか、薬物中毒、という状況の下に、その人の、どんな姿がそこにあるのか?を、これまでの様々な作品はあまりにも疎かにしてきたのではないか?その人自身の本来の飢えや渇望を、表面的な"ジャンキー"、"薬物は悪"で覆い隠すことによって、無視しているのではないか、という違和感をもって、彼はチェットを演じています。

 「薬物中毒者の素面」を描いた映画として、かなり意義深い作品なのではないでしょうか。

 

 実際のチェットの生涯と照らし合わせて、極限まで美化され、チェットに優しい世界に作り替えられたような今作を観終わったあと、「これでも美化であって現実のチェットはめちゃくちゃ悲惨でひどいんだよな……」と思うと結構クるものがあったのでこちらも勧めておきます。

終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて :ジェイムズ・ギャビン,鈴木 玲子|河出書房新社

 

 今年の映画で一番好きでした。好きなとこまだ全然語れてない。

 

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最近観た映画と、最近読んだ本と、最近買ったプリンターの感想

映画の感想。

 『シン・ゴジラ』を観た。全体的に画面が片付いてて白くてきれいな作りだと感じる。音楽の使い方に敬愛とオタク根性がある。オタク根性、っていうのは内包されうるものは色々あるけれど、この場合は”著作物同一保持性遵守”みたいなものを指す。それが敬愛のひとつの形でもあるだろうし、ゴジラに対する思い入れか、もしくは逸脱していく作品をゴジラの枠に繋ぎとめるための道具としての音楽だった。収まっていた、と思う。

 

 『ティファニーで朝食を』を観た。ワンショット、ワンシーンが焼き付く、という印象の強い部分のメリハリが良くて、想像以上ににぎやかで楽しい映画だった。もっと古典に位置づけられる映画を観たい。

 

 『君の名は。』を観た。ミュージックビデオみたいな映画だったなと思う。舞台、人物のスイッチと、音楽と映像の切り替え方、というところで、ガイ・リッチー監督の初期作品にも通じるものがある。ふたりぼっちの群像劇?を作るのに入れ替わりはスピード感を持たせられるガジェットなんだろう。

 

 『この世界の片隅に』を観た。この映画の中心、根幹、本質、は一体なんだろう?と考えると、それがどれなのか判断に迷う。戦時下であること、ではないし、広島、でもないし、一人の女性の人生、生活、が近いようで、でもそこに集約してしまうには、こぼれていくものたちの比重が重すぎる。そもそもタイトルが中心ではないのだ。あの山の裾野がウチらの家じゃけ。そうなのだ。この世界の片隅に、裾野に、目を凝らしても見えないけど水平線の向こうに、選ばなかったから思いを馳せることしかできない自分の人生のもしもの向こうに、そして今自分がいる場所に、そして今自分がここ以外の場所にはいないように、普遍的であることは局所的なのだ。普通に生きるってすごい大変、みたいな、そういう月並みな言葉にすると、またなんか違う。なんか全部違うんだよね。ふつうの映画、いい意味でふつう、と評する人が多くて、私もどこかでそう思いつつ、そうじゃないとも思う。ひたすら割り切れない。小数点以下のケタが無限に続いていくような映画だった。

 

 

本の感想。

 『居心地の悪い部屋』を読んだ。読んだあとに喉に小骨がひっかかるような読後感の悪さを詰め合わせた短編集。読後感の悪さ、は細分化すると、「読後感は悪いけど、読み終わったことによる解放感」、「読後感の悪さが、読み終わった後も自分を捕え続ける」、「読後にほほをつねりたくなる」があって、読んだことによって自分の身体感覚や倫理観がどこか遠くへ浮遊していって戻ってこなくなったような、もう自分は生身の人間じゃないような、現実感の喪失を与えるものがある。たぶん、読後感の悪さ、というもの自体が、読み終わったあとの読者の現実帰還速度が遅くなること、じゃないかと私は思う。この短編集は割と早く帰ってこれます。遊園地にある、あんまり怖くない小さめのジェットコースターの楽しさに近い。

 

 

プリンターの感想。

 

  TS8030を買った。10年振りにプリンターを買い替えたので、印刷速度の速さと機能の多さに慄いている。今までは印刷ボタンを押して紙が出てくるまでのあいだにコピーを諦めて近所のコンビニまで行ってコピーしていたのに、今は印刷ボタンを押したらすぐに紙が出てくるのでコピーを諦めることがなくなった。古いプリンターはスキャナーのレールが錆びていて、スキャンするたびに文明の滅びる音がしていたのに、TS8030は滅びない。

 

時系列を思い出せずバラバラの日記-8月から10月半ば

 彼女が入院することになった。婦人科の病気で、手術のための入院だった。彼女の両親が訪れ、そこで初対面となり挨拶をする。緊張する。遠方の実家から、少し離れた大学に通っていた彼女が、通っていた大学から更に離れて東京へ来たのは私が原因だったし、親元から娘さんをかなり引き離してしまったように感じていたので申し訳ないような気持ちがあった。手術の前日に彼女のお父さんと長いこと話し込む。戦々恐々としながら、でもできるだけ彼女が東京で暮らしていくことを了承してもらえるように、と頼み込むように話す。てっきり彼女の父は娘が東京で暮らすことに反対していると思い込んでいたのだけれど、実はそうでもなくて、がんばってやっていけるなら、好きなようにしていい、と言ってくれた。少し気が楽になる。彼女のことだけでなく、お父さんの仕事のこと、伝統芸能のコンテストの1位を決めるときの基準がよくわからなくて不思議だとか、地場野菜には名前のわからない謎の品種があるだとか、君、シンゴジラは観ました?面白かったですね、と話をふられて、よく話すお父さんなのでそれはもう、とりとめもなく縦横無尽に色々なことを話してくれる。私も話好きなので延々としゃべり続ける。どこかで、気に入られたい、いっちょ前にかっこつけておきたい気持ちも多分にあって、ずっと背伸びをし続ける。

 手術当日、手術の時間になり、手術室へと向かう彼女を見送るのがなぜか私一人になってしまった。彼女の両親と私の両親がちょうど席を外していて、彼女の職場へと赴いていたので、手術の時間が少し繰り上がったことで時間が合わなくなったようだった。

 関係者以外立ち入り禁止の、ガラスのドアに看護師さんがカードキーを通す。彼女が振り返る。

「じゃあね、あ、そうだ、私のソシャゲのスタミナ消費しといてください、今から三時間くらいできないからスタミナ腐っちゃう」

「いいよ別に、今そんなの、やっといてもいいけど」

「麻酔切れるまで時間あるし」

「あはは」

看護師さんが笑う。

「ご家族の方はお部屋のほうでお待ち頂いていいですか?手術内容、術後のことを説明にあがりますので」

「はい」

 ご家族の方、と呼ばれて勝手に嬉しくなる。今は手術前なのに。

「じゃあね、ばいばーい」

そういって彼女は手術室へ歩き出す。いつも彼女の”じゃあね、ばいばーい”の言い方は、なんか冷たくて意地悪で、手術の前でもそれは変わらなくて寂しくなる。ちょっと嫌味っぽいイントネーションをするのだ。わざとなのか、単に発音がちょっと変わってるのかは分からない。からかわれている感覚になる。

右に寄せてください、と指示されていつもと違う髪型になった彼女の、手術着の背中を見送る。

 

 病室に戻る。一人で落ち着かずに待ち続ける。ソシャゲのスタミナ消費しといて、と言われたけれど、とてもじゃないが気が気じゃなくてできない。手術の成功率自体は高くて、そんなにものすごい重症ではなくて、後遺症もないはずで、心配しなくてもいいとわかっていても、万が一、と考えて気もそぞろになりながら、椅子の上でおとなしくしている。看護師さんが訪れて、いま麻酔が効いて手術が始まったところです、腹腔鏡手術なので三か所に穴を空けて、と説明をする。手術前にも聞いているので同じ内容の繰り返しなのだけどかじりつくように聞く。

説明を終えた看護師さんが病室を出て、また一人になる。産婦人科と婦人科の病院なので、廊下から新生児の泣き声が聞こえる。

 

 手術が無事に終わり、麻酔が効いたまま、眠った状態の彼女が部屋へと運ばれてくる。時間をかけて、すこしずつ彼女が目を覚ます。安心して泣きそうになる。

あつい、きもちわるい、みずがのみたい、と騒ぎ出す彼女のまわりで、私、私の母、彼女の母の三人が布団をはぐって調節したり、うちわで顔を仰いだり、水差しで水を飲ませたりして意識が戻るのを待つ。無事に終わってよかったね、と三人で顔を見合わせる。私が水差しを傾けているときだけ彼女が「水が入ってこねえ~~」と文句を言う。

 

 彼女の退院当日に、今度は私の体調が崩れる。40℃の熱が出て引かない。なんだろうと思ったら急性虫垂炎だった。退院に付き添えなくなってしまった。かっこわるいね、と母に言われる。でも盲腸だし仕方なくない?かっこわるいけどさ。その前日に、彼女から「私が退院したら今度は○○くんが体調崩して倒れるんじゃないですか?」と言われていたので、それがピタリと当たってしまう。本当になっちゃったね、と笑う。

 

 虫垂炎は点滴だけで治ってくれて手術なしで済む。治った直後から夜勤の仕事が始まる。本当に大丈夫なのか、と自分の体調を疑いながら働く。案外やれるので続けている。

 

 ポンピドゥーセンター傑作展、クエイ兄弟展、渋谷のプラネタリウムを観に行く。

 

 地元にある前から気になっていた和食屋さんがおいしいと評判なので行ってみる。確かにすごいおいしかった。もっと早く来ればよかった。

 

 5人集まって公園でキャッチボールをする。昔使っていたグローブが見つからない。グローブを探していたらローラースケートを発見する。ちょっと履いてみて近所を少しだけ走る。路面がザラザラで滑りにくい。近くにつるつるの地面のローラースケートパークがないだろうかと探す。グローブを探すのを忘れかける。キャッチボールのあとに喫茶店と居酒屋へ行く。私以外みんな喫煙者で煙たい。

 

 初めてネトゲのオフ会に出席する。思ってたよりゲームの内容についてがっつり話す。昔の弱かった頃に全然走れなかったイベントの中途半端に手に入れた装備を見るたびに悔しいよね、って話をする。馬肉のお店だったので馬を様々な料理形態で食べまくる。おいしかった。直後にネトゲ内のチャットで「馬ウマい」と発言が飛んでくる。