「四月馬鹿達の宴」「はてしない物語」「ばいばい、アース」

 読み物として面白いかどうか、より、書き物として面白いかどうか、書くにあたって自分が楽しんで書けるかどうか、に重きを置いている。それ以外を何も重視していないとも言える。

だから楽しく書けない内容とか、ただ何があったかを書くだけ、というのが本当にできなくて、ついつい余計なことを書きたくなるし、どうせなら、と脚色と嘘八百で自分の思いつけることをどんどん記して、その中で気分にそぐうものを選んで残していく。

それが創作と呼べるのかは知らないけど、作り話をするのはずっと昔から好きだったし、これからも好きだろう。

虚言癖がある。その自覚がほとんどない。自分の記憶もだいぶ都合よくねじ曲げているので、自分の言ったことが本当なのか嘘なのか、自分では思い出せないし、そもそも何も気にしていないから、どちらでも差し障りがない。できるだけ、自分にも誰にも差し障りの無い、実体の無いことだけを喋るようにしているから、その虚実が綯い交ぜであったところで、それは単なる遠い御伽話の域を出ない。

 

 ここではないどこか遠くを思い浮かべる必要すらなく、ここではないどこか遠くよりも、もっと遠い場所が、いまここにある。

 

「四月馬鹿達の宴」というゲームがある。

ミヒャエル・エンデ冲方丁のパロディに溢れた、いや、パロディではなくて、ファンタジーの中に介在する、創作への衝動、創作することのロマンを謳歌するような、そんな、ファンタジーへの愛によるゲームだ。

ロマンを解するというのは、単にそれらに共感するとか好いているとか、そういうことじゃない。

アトレーユを傷つけたのはバスチアンで、バスチアンを救うのはアトレーユだが、私はただそれを読み進めただけに過ぎず、剣が抜かれるのを止めることはないし、26面体のサイコロを振り続ける地獄に留まることもない、ただ通り過ぎるだけの存在だ、それなのに、バスチアンほどの怒りを持たず、アトレーユほどの勇気を持たずして、アトレーユを傷つけようとし、またバスチアンを救おうとした。なぜか。

私は理由も感情もなく、ただロマンを解したのだ。それだけで私は動いた。実際にはページを手でめくり文字を目で追っていただけの少年は、確かにあのとき、砂漠の砂の一粒を握りしめた。

 

四月馬鹿達の宴に話を戻そう。

かなりのネタバレになるので、このゲームを未プレイ且つプレイする予定のある人は読まないほうが良いと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 物語の否定。作り話の全てを葬り去らんとする敵。

nowhere.

nowhereという敵にはあらゆる攻撃が通じない。ここには居ないから。この物語の中に、nowhereは存在しない。どこにもいない。

彼は、この物語の外にいる存在だ。それは作者や読者や第三者であって、お話の中の登場人物ではない、ということでもあるし、物語の物語性や存在そのものを否定するから、でもある。

同じく、主人公の「あなた」は、nowhere同様に、物語の外の存在、プレイヤーである。しかしあなたはnowhereと違う行動を取ることができる。nowhereは、物語の中に仕込まれた物語の外であるのに対し、「あなた」は、本当に、現実に、物語の外からの来訪者だからだ。

あなたはブランクという攻撃を持つ。空白。文章の間にスペースを設けるという、ささやかな記述。記述の変更。あなたはnowhereを倒しうる唯一の存在としてブランクを放つ。

now here.

どこにもいない存在をここに記す。これは極小の嘘で、とても小さな創作だ。あなたはnowhereに空白を挟んで、屁理屈をこねる。

now hereになったのだから、どこにもいない敵じゃない。お前はここにいるんだと。

そしてゲームには演出のテロップが挟まれる。

narrative is nowhere, but narrative is now here.

あらかじめ決められている展開を覆す力をあなたは持たない。このゲームはこのゲームに予定されたとおりに進んでいる。だからあなたが選択したのはゲームを進めるというだけのことで、nowhereを倒すことではない。それでも、もし、ロマンを解したなら。

あなたは、作中のあなたより、誰より強く、立ち向かう。それが自分の意思でないと知りながら。物語を続けることを、終わらせることを、戦うことを、あなたは選ぶ。

想像すること。創造すること。ほんのすこしの空白を挟むこと。

嘘だとしても信じること。祈り。嘘をつく自分を許すこと。

嘘をついてもよい日が来る。今日も明日も明後日も。

どこにもないものを自分の中に持つ力。嘘という形。

 

バスチアンも、「あなた」も、私も、願いを叶え、お話を作り、世界を変えるごとに、少しずつ記憶を失って、現実を忘れていくけれど、作られたお話は静かに寄り添っている。