納得するとチャンネルが閉じる

 友人たちと、創作物、特にストーリーの存在する作品に於ける、共通認識の構築と、それを利用した演出の巧拙に関して話していた。作中でのみ使用され、駆動している前提を、読者や視聴者ら受け手にとっての共通認識にするために、どのように情報を開示していくか、またどこまで開示しないか、驚きを与えるために共通認識の外に置くべきものは何か、とかそんな話だった。

 少し脱線するけど、たとえば、効果的な演出として、アニメやゲームの場合、最終決戦で主題歌が流れるとテンションが上がる、みたいなものがあって、これがもし、最終決戦で新曲が初めて流れたら視聴者は誰もその曲を知らないから最終決戦としての盛り上がりに「戦闘シーンのBGMに主題歌が流れた!」「総括に入ってる!」という感慨を与えられないわけで、そうなると新曲がどのくらい魅力的か、最終決戦に相応しいか、で勝負しなくてはいけなくなる。逆に言えば最終決戦で主題歌を流す作品は、既に刷り込まれている共通認識、その作品を背負っている主題歌の持つ代弁性(?)のような効果に頼っていて、勝負に出ていないとも言える。

 作中用語に関する解説が、キャラクターの発言やモノローグ、ナレーションによる解説の形だけに頼らず、作品の媒体やシーンを活かしたものになっていて、できるだけ自然に簡潔に伝達でき、スムーズに共通認識を組み上げられると強い(作品としての完成度、商業的な成功、理解のしやすさなどでの強さ)等々。

 一例を挙げると、宇宙船が急加速した際に、慣性によって船内の人間が吹き飛んでいく際、吹き飛んだ人間が異性の利用する更衣室や浴場の扉を突き破って中に飛び込んでいくと、世界観や設定を描写して説明しながら、いわゆるお色気シーンやラッキースケベを盛り込むことができ、なおかつ飛び込んだ先の浴場が、単純な浴場ではなく、その作品内での独自の施設だった場合には、そういった作中用語や概念の描写と説明にも繋げられる。映像作品において貴重な尺を上手く使いながら一度のシーンで多くの情報を詰め込める上に理解しやすい。

 

 なぜ一例としてラッキースケベを出した?

 

 

 いつもどおり、関係ない話に変わります。

物事について納得すると、その物事に関しての思索が一通り済んで打ち切られてしまい、その方向に関してのチャンネルが閉じてしまうことが多い。

ある程度は納得してチャンネルを閉じるのも必要だ。全てのことを考え続けることはできない。納得か保留を駆使して人は生きている。そうしなければ際限がない。

もし全てに納得せず、チャンネルを全解放し続けていたら?

あらゆる思索が中断も放棄も許されず、ずっと回り続けていたら?

壁と天井と床、あらゆる平面と曲面、認識しうる全ての場所に閉じた眼が密集していて、納得は常に彼らを眠らせているのだとして、何一つ納得できないならば、それは全方位に存在する眼が一斉に開いてこちらを見ている状態だ。

チャンネルが開き続けている。