ウィリアム・ケントリッジの「memo」について

原美術館ARCにて展示されていた、

ウィリアム・ケントリッジの「memo」という3分ほどの映像作品を鑑賞した。

実写とアニメーションを組み合わせたもので、端的に言うとインクが動く。

自分の走り書きや、何か書き留めておいたものが紙の中で動き出したり、絵に描いた蟻が立体になって歩き出したり、といった具合の作品だ。

さほど珍しいわけでも革新的なわけでもなくて、でも映像の中央に陣取っている彼自身がコミカルに苛立つさまと、彼をからかって遊びまわる「memo」の様子は何か純粋に良いものだった。

 

書く。記す。memo。

自分の中にある思いつきを書いたあと、しばらくすると、書かれた思いつきと自分との間に齟齬が生じてくる。

良いと思って書き留めたアイデアがくだらなく思えたり、自分のアイデアが自分の制御下になくなって、ひとり歩きをしてしまうような。

 

「memo」を見ている最中に、ふと、その感覚が訪れた。

これは作品の解釈だろうか?いや、自分にたびたび起こることを、「memo」を介して、私が勝手に見出して、納得しただけだった。でも一度その考えに思い至ると、そういう作品であるようにしか思えなくなった。

展示されている映像作品は終了後にループする。

私は「memo」の前にしばらく佇んでいた。確信のようなものを抱いてしまう。

「memo」は過去の自分が記したアイデアへの苛立ちだ。それを表現しているのだ、と。

そんなありきたりな解釈を頭に広げたまま作品を鑑賞したくなかった。

私は頭を空っぽにして美術館の中を散策していたかった。

まただ。剥離だ。記してすらいなくても自分の思いつきが自分の邪魔になる。

おそらく「memo」で表現されている心の動きが、それを鑑賞したことで私の中にもトレースされてしまった。

「それらが同じものだと思うことで」。

ちがう。これはmemoじゃない。でもmemoのように働いていく。

なんだか自分の脳まで彼の作品の領域にされたようで変な気分だった。

でも悪くない。