三角形の世界

 貧しい人が貧しいまま生きていけるのが豊かさだとして、そういう豊かさは嫌だ。と発言したとする。

この場合、何に対して嫌だと感じているか、を、聴者にどう捉えられるのかを考える。

そういう豊かさは嫌だ、と言っているので、例えば「貧しい人が貧しいまま生きていける豊かさではなく、貧しい人が豊かになっていける豊かさが良い」のようなものが導き出されると有り難いけれど、そうならないことも多分にあるだろう。

貧しい人が貧しいまま生きていくのが嫌だ、と捉えられた場合は大変だ。貧者に対する差別意識だなんだとお叱りを受けてしまう。そして「豊かになれなくて貧しいまま生きていく人もいるのに、そういう人が生きることを否定するんですか」と非難轟々となる。その光景が目に浮かぶようだ。

 

 面倒だ。何かと飛び火することが多いので迂闊なことは言えぬ、予防線を何重にも張らなくてはなるまい、隙のない当り障りのない発言を心掛けねば、と萎縮しているうちに、実際に言葉にする前に、思考の側に制限が掛かっているのを強く感じる。

かねてから「思考や意思など存在しない、話し、書き記して初めて物質として意識を生み出して、それを認め、自己へと再輸入するのだ」というようなことを主張しておいて、言葉の前に思考に制限が掛かると言うのもおかしな話だが、本当にそんな具合で、言えること、思えることの範囲が狭まってきている。

 

 言うことや思うことの範囲を狭めてくるのは紛れも無く人だ。人の世だ。しかし言うことや思うことを励起するのもまた人であり人の世だ。そうなると、人の世によって上手い具合に、または余計な干渉を受けて、言動と思考は統御されているのだ、という当たり前のようなことを再発見する。厳密には、これまで果たして実感してそれを見出したことがあったかどうか、あまり覚えていないので、再発見と呼べるかは知らない。

 

脳髄は物を思う処には非ず。だとか、

脳髄は物を思うには非ず、物を思うのはむしろ此の街。だとか、

はたまた草枕の冒頭、

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へと引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

人の世を作ったものは神でなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

から感じるが、やはり言動や思考は強烈に、街に、人の世に律せられている。

「人の世のあちこちへ越して住みにくさを悟る」、つまり先程述べた面倒さ、倦み疲れ、等によって、「詩が生れて、画が出来る」。

どうだろう。私は今のところ詩も生まれず画も出来ていない。もっと人の世の住みにくさを、これでもか、と堪能するべきだろうか。かえって、部分的には住みよさも感じているかもしれない。越す国も、詩も、画も欲せていないかもしれない。

たとえばそれは貧しさだとしよう。私は貧しいままでも人の世で生きていける。それは貧しさだ。貧しいままでは生きていかれなくなって、豊かになることを目指したり、詩が生まれたりするのなら、私は生きていかれなくなる必要があるんだろうか。

友人に抜群に上手い絵を描く者が居て、彼はたびたび言う、「生活が苦しくなり追い詰められてようやっと自分は絵が描ける」と。彼は絵の練習をする際に家賃を払えなくなるまで篭もりきって絵を描いた。私はそこまで自分を追い詰めることができない。住みやすい、ぬるい環境で、目一杯に怠けて、ほどほどに働いて、たまに遊んで、少しずつ絵を描いている。

彼は人の世よりも住みにくい場所へと足を踏み込んできたように思う。大袈裟かもしれないが。そして踏み込んで、こちらへと帰ってくるのだ。

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

住みにくそうだ。

ただ彼の行った場所は人でなしの国でもない。

無人の世である。無人の世で彼は絵を描いていた。そして人の世に戻ってからも絵を描く。人の世で描くために無人の世へ行ったのだから。

はて、どのような具合だろう。

先ほど私は人の世が人を狭めて矯正するとしたが、はたして無人の世は人をどうするのだろう。どうする者もいないので、何もされず、まったく矯正されることも無いのだろうか。

違う。自らを狭める要因が失せると、今度は自らでそれの代わりを務めるのだ。誰に責められるでもないのに自分で自分を責めるように。ただ、完璧に代わりを務めるのはできないことが、幸いする。

人の言葉は善意に受け取れ、とはいうものの、それは難しいもので、面白くない指図をうけて、はいそうですか、とは中々ならない。だから自分でその言葉を劣化させて、そう、無人の世だ、無人の世へ自分が転がり落ちていくとき、人の言葉をむんずと掴み、地獄の底に叩きつけ、こだまさせ、切れ味をだいぶ鈍らせて、そうか、これは俺の為にこだまするのだ、と思えると、それはもう自律であるし、善意も悪意もない、ただ人の世の形がそうであると認めて、それに対処するという至極簡単な具合になる。

どこかで欠ける必要がある。何が?誰が?何を?どのように?

四角形の世界から常識という角を一つ欠いた三角形の世界に住む者が芸術家だなんだと言うが、別に欠ける角はなんだって良いし、芸術家じゃなくとも角を欠いて良いのだ。がむしゃらに腕を振り回して、もしかすると角でなく自分が欠けてしまうかもしれないが、そうやって住みやすさを自分の王国の中に築かなければならない。誰だってやっていることで、でも欠けていることに気付く者などいない。でも、もし、自分の意思で欠いていくことで、収まりのよい三角形の中に住めるのなら、それは是非ともやってしまおう。仮住まいであるなら尚更だ。いつか出て行く日も決めておこう。

おかしな話だが「生きていけないけど、どうにかして生きていく」というのが本当のところでは豊かさの本質じゃないかと思う。これは「生きていける」とは違うものだ。生殺与奪を人の世に握られた状態から一瞬でも切り離して自分の手にそれを取り戻し、自分の持てる時間を営み、またそれを人の世に返す。そういう貸し借りを何度も、自分から望んで繰り返せること。豊かさ。

 

同じものを指して、ある者は豊かさと言い、ある者は貧しさと言う。

私は全ての存在しうるものは全て貧しさだと思う。存在の貧しさ。

豊かさは志向だ。常に現存するものよりも良いものを求めること。

生きていけないと強く嘆いて、生きようとすること。

住みにくいと悟って、詩を生み、絵を描くこと。

だから面倒で窮屈な人の世は、面倒で窮屈だから良いものだ。