5億円ゲイザー

 映画「インセプション」のパンフレットのデザインがお気に入りで、映画本編を見ていた時間より、パンフレットを読んだり眺めたりしていた時間のほうが長い。表紙は上空から街を見下ろした俯瞰の構図なんだけど、上空から街を撮った写真や映像というのを、私は写真や映像でしか見たことがない。ヘリコプターに乗りたいなあ。

で、インセプションのパンフの表紙の話なんだけど、この構図はちょっと普通の俯瞰ではなくて、上空から地面までの距離や壮大感を強調するために、少しずつビルの傾斜や角度がおかしくなっている。簡単にいえばパースが狂っている。写真ではなくてCGだから、あえてそうしているんだけど、これが映画本編での映し方やシナリオとも絡んでいるように思う。

 

インセプションの話をざっくりまとめると、妻と二人で夢の世界で何千年何万年も暮らしていたら、妻が夢の世界に浸りすぎて現実に帰ってこなくなってしまい、彼女を現実に呼び戻すために「これは現実じゃない、夢だ」という考えを意識下に植えつけて、夢の中で心中することで、死によるショックで意識をたたき起こして、現実に帰ってきたはいいんだけど、妻は現実に帰ってきても「これは現実じゃない、夢だ」という考えが脳裏をチラついて、それに耐え切れず、また自殺すれば現実に帰れる!と思って死んでしまう。それがトラウマになってて俺はつらい。みたいな話です。

妻が現実に帰ろうとして自殺するとき、「私が死んだとしたらそれは夫に殺されたからです」という内容の手紙を弁護士に送りつけていたせいで、主人公は警察に追われる身になってしまい、子供たちとも会えなくなるんだけど、その動機が全然わからないのだ。たぶん、パンフの表紙と同じで、意図的に狂ったパースのような、演出上の、シナリオ上の都合なんだろうけど、どうしてそんなことをしたのか、今でも全くわからない。

「この世界は現実じゃない、夢だ、死んで現実に帰らなくちゃ」という思い、不安が募るから自殺を選ぶというときに、どうして自分では夢だと思っている世界、もしかしたら現実かもしれない世界にいる夫を、自分の死によって追い詰めて攻撃する必要があるんだろうか。「あなたも早く死んで現実に帰ってきて」と、愛しているとか、あなたを必要としているから、寂しいから、という理由で、強制力を発生させるような自殺をする、というのが、なにか、本当に不気味だ。不気味だけど、そういう自殺は確かに創作でも現実でも存在していて、でも動機が全くわからない。自殺するくらい追い詰められた精神状態で、理路整然とした受け入れてもらえる動機なんてのが背景にあることを期待するのが間違っているかもしれないけど、そこはそれこそ演出上の都合だ。狂ったパースを描いてほしい。まともじゃいられない精神状態で、まともなことを言ってくれる人物が、創作物の中に居ていいじゃないか。

 

主人公は産業スパイとして依頼を受けて、「ライバル会社の社長が死んで息子が後を継ぐことになったから、息子の脳に『俺は親父の会社を継がないぞ』ってイメージやアイディアを植え付けて会社を潰してくれ」というヤバい案件を抱え込むことになる。それを達成するときの手順なんだけど、息子の夢の中で、まだ社長(父親)が亡くなっていない、病床で臥せっている風景を創りだして、そこで父親から息子へとメッセージを送る、という方法だった。

 

主人公は妻に自殺され、それによって子供とも引き離され、「父」ではいられなくなった。子供に会うために違法な仕事を請け負って、報酬として殺人の嫌疑を晴らしてもらおうとしている。子供に会いたい。父親でありたい。

かたやライバル会社の社長の息子は、自分は父に愛されていなかったんじゃないか、父は自分のことが嫌いだったんじゃないか、無能だなんだと謗られていたし期待されていなかったんじゃないか、という不安や不信を抱えている。

 

主人公は夢の世界を操作し、創作して、父親から、息子へと語りかける。「私がお前を無能だと言ったのは、お前が私を真似ようとするからだ」この言葉だけで、依頼内容はだいたい達成している。でもそれだけではやっぱりパンチが弱いし、何より、父の子に対する愛というものを掲示できない。人の考えを変えるとき、頭のなかに考えを植え付けるとき、そこには強烈な愛が必要になっていたはずだ。それは妻と心中して現実に帰るときだってそうだった。愛しているから君と一緒に死ねる。夢の中では。現実では一緒に死んでやることはできなかった。愛しているのに。

父は病床の横にある金庫を指で示す。息子は金庫を開ける。

金庫の中には、かざぐるまが入っている。かつて幼い日に、父に買ってもらったかざぐるま。ふたりの思い出。父は私を愛していた。急いで父へと語りかけようとすると、既に父は事切れていて、子は泣きながら、夢の世界は崩れ、覚めていく。

 

子を愛するというのを、赤の他人の父子の関係を勝手に創作して歪めるという、「会社を潰す」というスパイ活動の一環ではあるけど、その中で、創作上の父親を使って、子へと、愛していると伝える行動が、おそらくは、だけど、主人公の父性愛が吠えた瞬間だろうと、私は思う。父であることを封じられ、子供に会えなくなってしまった、それも妻の死によってそうなった父親の、ちょっとした抵抗であり、家族の関係を改善したいという叶わない望みを、夢の中の死者に叶えさせる試み。それはどうしようもなく狂っているパースで何一つ正しくないんだけど。

 

 

私は5億円を見たことがない。でも5億円ゲイザーだ。ずっと5億円を眺めていて希求している。想像上の5億円を。ヘリコプターから見下ろす風景と同じで、知らないんだけど、なんか好きだし、面白いし、良いよなって思えるもの。書いてたら、本当にそれが5億円でいいのかよ?と不安になってきたけど、ぼんやりとした5億円はやっぱり希望だ。

シューゲイザーという音楽のジャンルは、ずっと俯いて靴を見つめたまま演奏してるからシューゲイザー、という名付けられ方なんだけど、でもそう評されたボーカリストが本当に眺めていたのは靴じゃなくて、歌詞カードだった。歌詞が覚えられなかったから。

たぶん私も本当に見つめているものは5億円じゃないんだろうと思う。よく考えたらそもそも5億円ゲイザーじゃないんだけど。でも5億円ゲイザーというジャンルを打ち出せて、本当に見つめてるものが生活苦とか社会不適合であるわけではないんだよ、ということにできたら、それは楽しいし、狂う価値のあるパースだ。