何事もすみやかに

 遅い。何もかもが遅い。

目が覚めてからベッドの上で2時間近くは動けない。顔を洗うのも歯をみがくのも遅い。朝ごはんはゆっくり食べる。着替えも遅い。歩くのも遅い。道に迷う。道草をする。どこへ向かっていたかも忘れがちだ。完全なる痴呆である。

Twitterにかまけている時間もいたずらに長い。もうちょっと短くしたいし、一日で精々3ツイートぐらいしたら引き上げるような使い方が適切なはずだ。適切だなんだというならインターネットから完全に消え失せて悠々自適にゆっくりごはんを食べているのが一番よいような気がしてきた。いやちがう。そうじゃないんだ。

ブログを更新するのにも時間をかけずに短く簡潔にさらっと、本当に他愛なく、気軽に書いたものを投稿するだけでいい。手離れの良さを殺してまで何をどうするというのか。

 

note.muというSNS(SNSなのだろうか)に登録してはみたものの、どういう使い方をすればいいのか、利用者を見ても全くわからない上に、Twitterやブログと似たようなことをするぐらいなら登録すべきではない、と強い拒否感が先立ってしまって、今のところ何も更新していない。文章でも画像でも音楽でも映像でも値段を付けて販売できるらしいが、何も売るものがない。

値段設定の相場が全くわからないから、市販の歌集の値段を収録されている短歌の数で割って、だいたい1首が何円くらいか、でもこれはプロの短歌だから私の場合は下回るな、そうするとちょうどいい値段で売るには何首ぐらいをまとめる必要があって、ちょっと待てよ、コンセプトに統一性がないとダメなんじゃ、そもそも意味がわからないと評されるものを詰めて売る度胸が自分にあるのか、と色々悩んでいたら面倒くさくなってきたので近いうちに退会します。

 

 

ふるさとに桜はないと父の死に思い出されて帰路はすみやか 

 

 少し前に稀風社のustで「桜」の題詠をやっていたときに、浮かんだはいいものの出しそびれた短歌なのだけど、これが具体的にどういう情景でどういう読み解きがされるのか、という客観的なものが把握できてなくて、意図したものが伝わってなかったり、「そこまでは誰も想像しませんよ」と言われるケースが再発してるんだろうなというのがあって、出しそびれたんだけど、でも意図を伝えるために短歌をやってるわけじゃない。とりあえず自分でどういうつもりだったのか確認しようと思う。

 

春先に父が亡くなり、久しぶりに実家へ帰った。駅から実家へ向かう道中、桜を探しながら歩くのだけど、ついに見つからないまま実家へ着き、そうだ、故郷に桜は無かったと思い出す。葬儀を終えて帰るときは足早に駅へと向かう。探す桜はないから。

 

そんな具合だった。「帰路」が実家への帰省ではなくて、実家から普段の生活圏への帰路であるというのが、もしかしたら混線しやすいかもしれない。父が亡くなっているのに、桜の咲いている季節に帰省して、桜の咲いている季節のうちに戻る、という滞在期間の異様な短さからくる薄情さ、もしくは関係が冷えている感じ、が出ているのかどうか。「桜はないと思い出されて帰路はすみやか」なので、桜の季節が過ぎ去っている場合の表現ではない、とするのが個人的な感覚だとしたらこれも成立しない。

 

それとは別の読み解き方をした場合にどうなるのかが気になる。桜が何かの喩えであるとか。父の死、というのを単なる想起の機会としてだけ利用したけれど、なにか、ふるさとに桜がないから父は死んだんだ、桜がないようなふるさとだから父が死んだ、という遣る瀬無さから足早に帰っていく姿も浮かべることが可能だろうか。

 

 ちなみに私の父は亡くなってないです。出張先から毎日のように葉書が送られてきて、旅行録や、旅先での史跡に関する薀蓄とは全く関係ない文脈で「私はその昔トムクルーズに似てると言われたことがあり…」と誰も求めてない話を何度も蒸し返すために、苛ついてきて、短歌の中でお亡くなりになってもらいました。後付で適当なこと言ったけど、これ本当に父が死んだら私すげー悔やむんだろうな。やっぱり実在の人物とは一切関係がないです。関係がないって素敵ですね。

 

またブログの更新がすみやかになされなかった。

当初の予定では140字以下で更新して「Twitterでいいじゃん」と締めくくるつもりだったし何も書く予定が無かったのに…なんで…多動症か?