角地の小さなマッチ箱
家を買った。角地の小さなマッチ箱のような、ささやかな家だ。バカなことをしたと思う。1990年。わざわざ値上がりしているときに買う必要はまったくなかったと言っていい。前に住んでいた家も値上がりしていたので、それを売って手に入ったまとまった額を、たしか私達夫婦は貯金に回そうとしていたはずだ。
夫の勤めている会社が急成長し、福利厚生が充実し、借り上げ社宅制度ができた。せっかく住まわせてもらえるなら、住まなきゃ損だろう、と話していたのに、家を売りに出した際に不動産屋にうまいこと唆されて、こんなに小さな家を買ってしまった。
それでも新居での生活はなかなか楽しくて、そろそろ子供がほしいね、子供がほしいのに小さな家に越すなんてバカじゃないの、それじゃあまた引っ越そうか、なんて計画性のない幸せが心地よかった。
インターホンが鳴った。
「○○ペイントです」ネームプレートをつけたスーツの男がチラシを渡してくる。塗装業者らしい。
「お宅のような角地の目立つ家ですし、宣伝になるので、割安で外壁の塗装ができますが、どうでしょうか」
「は、はあ」
名刺も渡さずにいきなりまくしたてる妙な男を警戒しながら返答する。
「すいません、私達、まだ越してきたばかりですし、この家も別に傷んでないので、今は必要ないかな、と」
「へ?」
男はきょとんとした顔をする。初めからセールスらしからぬ商売っ気のない男だったが、なけなしのセールス精神が一気に崩れたような表情だ。
「越してきたばかり……なんですか」
「はい」
「かなり前から住んでいらしたのでは」
「いえ、越してから一週間も経ってません」
男に電話がかかってきた。
「すみません、」と慌てて男は電話口に出る。
「いえ、それがですね、越してきたばかりだというんですよ、ええ、はい、○○さん、といって、若い夫婦で、ええ」
小声で話そうとしているようだが、よく通る声のせいで何を話しているのか全て筒抜けだ。わざとやっているんだろうか。
男は急に向き直る。
「すみません、お手数おかけしました、今日はこれで」
何の説明もなしに男はそそくさと立ち去っていった。
「それさ、きっと公安かなんかだよ」
後日、学生時代の友人と食事をしているときにその塗装業者の件を話題に出すと、そんなことを言われた。
「公安?まさか。なんでうちに」
「その家の前の住人をマークしてたんだよ、あの家に変わったことは無かった?」
「なんにもないよ、小さくて日当たりが良いだけ」
いや待てよ、と思い当たる。そういえば契約してもいない赤い新聞が入っていた。
「それだよ」
「赤い新聞の党の人らを?公安がマーク?」
「盗聴器でも仕掛けるとかね」
「この御時世でもそんなことしてるのかな」
「するさ、それに、前の住人は赤い新聞を解約したり、住所が変わることを向こうに連絡せずに消えたってことだろう」
「はあ」
「党とは別に何かの件でマークされてるのかも」
「そんな物騒な人が住むような大層な家じゃないけどなあ」
「角地の小さな家だぜ?しかも周囲は開けた休耕地だ。どこから誰が近づいてきてもすぐに見つけられる。カルト関係かもよ」
思わず苦笑してしまう。この子は熱が入るとこれだ。
「本当にそういう話、好きだよね、銀行員より警察になればよかったんじゃないの」
「こういう与太話が好きだから銀行員をやってるんだ、それより」
食事の途中で手が止まっていたのを不意に思い出したように、義務的に水をひとくち飲んでから、友人は続ける。
「今の家も早いところ売って、賃貸に越したほうがいいよ、そろそろ子供がほしいんだろ?」
「うん」
「お金と時間と場所は大切だよ、誰にとっても、特に母と子には、そして」
また水を飲む。
「ほにゃらら危うきに近寄らず、だ」
「えー、ほにゃららってなんだったっけ」
「そうやってとぼける人のことだよ」
そうして私たちは小さな家から離れて、今度はアパートへと越した。バブルは弾けて、ソ連は崩壊して、冷戦が終わって、子供が生まれて、色んなことがあって、友人も結婚し、柄にもなくかわいい表情で映り込んだツーショットの裏に、でもやっぱり彼女らしい文がしたためてあった。
『時間は過ぎていく。本当は時間は永遠で、僕達が一カ所に留まるだけの辛抱強さをもたないから、僕達が過ぎていってしまうのかもしれない。』
20年振りにあの家の近くを通りがかったので、路地を抜け、記憶を頼りに探してみると、当時の姿のまま、あの家が建っていた。やっぱり何の変哲もない小さな家で、私には過去でしかないけれど、こんなにも長い期間、ずっと誰かが住んでいて(今も住んでいる様子が伺えた)、手入れも行き届いたまま健在なのを見ると、彼女のいうとおり、何か妙な事情を抱えているようで、それがなんとなくおかしくて、いや、ただのマッチ箱だよ、と思い直すのだった。