もう冗談も伝えづらい、俺も終わっちまってるし

 アメリカの選挙の時期によくテレビで流れている光景で、「スーパーマーケットの広い駐車場に停められた車を挟んで共和党支持者と民主党支持者が喧々諤々と議論している」というものがあるけれど、前から疑問だったのだけどアレは一体なんなんだろう?

普通に生活していてああいう形でVTR映えするような構図で議論が始まるんだろうか?それともテレビクルーが撮影にあたって注文をつけてる?市民も全員スタッフ?大統領選の時期なら街中でカメラ回しときゃ簡単に激論を交わす市民が撮れるなんてことがあるんだろうか……?「忌憚なく政治について意見を交わす正しく清い模範的市民」のイメージを前面に押し出しているので、社会科教材のように見える。なんなのか気になり続けている。

 

 

 体調が悪い。去年の今頃に肺炎で入院して、そのあとからずっと崩しがちではあったけれど、年末に帰省したときに耳に閉塞感を覚えてから、その耳の閉塞感が消えなくなって半年が経ってしまった。ずっと耳鳴りのような頭を締め付けるような不快感がある。中耳炎は治っているそうなので、耳管の炎症の痕か、耳石か、メニエール病か、精神的なストレスか、原因はなんだか分からないがとにかく苦しい。半年間ずっと耳が聴こえづらい、詰まった感じがする、というのが最大のストレスなので、これが原因でさらにひどくなっている悪循環だったりしたら嫌だなと思う。

 元から打たれ弱いほうだったのが、最近更に弱くなってしまった。すべてが応える。今年は色々とやりたいこと、やらなくちゃいけないことがあって、そもそも受験生なので勉強に専念したいのもあって、何はともあれ耳を治したい。

 

 しばらく文章を書いていない。言いたいことが何一つ言えなくなって黙り込んでいることが増えた。ひたすら書きまくる、喋りまくるタイプだったと、すこし前までの自分のことをそう憶えている。なんだか虚しい。何もできず臥せっているだけの毎日を送っているように思われてくる。実際にはそんなことはないはずなのに。幸せなことや楽しいことが半年間たくさんあったのに。がんばれるようになったはずなのに。人生が大きく動き出したのに。気持ちも身体もついてきてくれない。またすべてを諦めているような気分になる。

 

 落ち込んだり持ち直したりを頻繁に極端に繰り返していることにも身体が耐え切れなくなっている。もう全部だめだ、大丈夫なんとかなる、を切り替え続けて段々どっちも輪郭がぼやけてきて何がどうなって今自分がどういうテンションか判らない。元気があって、なんとかやれそうな時に、何一つ手につかなくて、具合が悪くなって倒れてしまう。

 

 それでも一番ひどかった時期よりずっとマシなんだ。成長や変化や克己が痛みや苦しみを伴う、みたいな一般論めいた教訓じゃなく、もうなにもかも溶けてぐずぐずになるような激痛を前にして私は生きてるし私なりにうまくやれてるわけで、これが成長じゃなくてなんなんだよ?まだやれる、もっとうまくやれる、なにひとつ実感は無くて心が折れたまま全部諦めて失望した状態で、その上でまだ積み上げていこうと思えてる、うそ本当は思えてない、でも強くそう願うんだ、強がりをほんの少しでも本当にするんだ、現状に何一つ納得いかないなら、そんなのは全部いらないんだ、心を折るような現実なんか消し飛ばしてしまいたい、どんなに何をどうやっても消えないで追いかけてきて首を絞めてくるクソ、クソ現実が邪魔だ、なんで俺こんなに現実の暗いとこ考えるかなあ、考えたくないし考えても気分が悪くなるだけなのにな、もっと自分を元気づけてくれる考え方が必要で、それは本当になんだっていい、だいたい一切合切が言葉の綾みたいなもんなのに気にしすぎなんだよ、厳密である必要なんかまったくないし誰も求めてないのに、なんで人を傷つけないように配慮しようとかするんだろう、誰もかれもエグいくらい傷つけまくってくるのに、どうせどっかで傷つけるなら優しい着地点を早めに探していったほうがいいのに、どうして後回しにしてこじれてしまうんだろう、表面的で浅いところでいがみあって終わらせて、どっか深いところでお互い冷静に優しく穏やかになれたらいいのに、ぎこちない、意識が、両手が、視線が、気分が、表情が、周りの人々が、会話が、ぎこちない、生活が、ぎこちなさが息を詰まらせてくる、もっと肩の力抜きなよ、って自分で自分に言い聞かせて奥歯が割れるくらい力が入ってく、誰にも自分にもぶつけられない怒りがぐるぐるする、心の中には対象との距離を測るレンズみたいなのがあって、それの焦点が合わなくなるとすぐ宇宙とか存在がどうとかって飛躍する安直な思考の形がある、身近なことがぼやけて宇宙のほうがくっきりするのは一種正常な反応かもねってよく思う、たぶんそういうとき思いっきり遠景じゃないと正視に耐えないんだよ、宇宙を見つめるような暗い瞳で親しい人や自分や実生活なんか見ちゃうと全部が台無しになるから、だから自然と遠く離れていく、そして何にもない虚空をしばらく眺めて飽きてくると焦点が戻って定まってくる、集中力なくてよかったね、って思う、もし集中力あったら冷たくなったまま戻ってこれないから、頭が悪くてよかったねって思う、結論が出なくて済んだから、まともじゃないとき考えたことなんて全部忘れたほうがいいんだよ、夜書いた手紙は封するな、に近くて、

でも人間なんてみんな夜書いた手紙じゃないか、一体いつまともなんだよ?

接触

 できるだけ、ゆっくり、丁寧に書いていく。ともすれば焦るあまりに何もかも書いてしまいそうだし、また何も書けなくなりそうだから。正確を期す、わけではなく、ただ落ち着きをもって書きたい。元から落ち着きのない私が、最近は特に冷静さを欠いていて、ずっと神経が昂ぶったまま過ごしている。よくない状態にある、と思う。

 

 鈍っていた心身を、急にものすごい勢いで動かして、かなりの無理をした結果、鈍っていた頃よりも片手落ちになっているような、変な具合になっている。良い変化と悪い変化がそれぞれあって、一喜一憂しながら、無感動も同時に行うような、態度を幾つも重ねあわせたような受け止め方を自分と環境に対して取っている。どういうことか、といえば、それは何事も無闇矢鱈と平均化して、取りうる態度、発生しうる感情、のすべてを再現するような、正しい気分、を持とうと努力するような、正直あまり意味のない、ただ疲れるだけの「感情の検分」をしている。それがなんなのか、と聞かれたら何も答えられない。なんでもないのだ。自分にとってすらどうでもいい。必要を感じて行っている思考ではなくて、ただ自動的に発生していくその過程に、無為に労力(ただほんの少しだけ気が滅入るだけで労力と呼ぶのだろうか?そう感じるほど気力体力が低下しているということは私の場合、それは労力にあたるのだろう)を消費していることが腹立たしく、また遣る瀬無い。

 

 この文章を書いている途中で、私の兼ねてから抱えている、感覚、の発作が、いま、起きている。すべての五感、主に触覚と聴覚、が、荒れ狂うように強くなり、いまわたしがタイプしているキーボードと指の触れ合う音が、実際にはほんのすこしの、ちいさな、かちゃ、という音にもかかわらず、わたしには、すさまじい轟音、おおぜいの人々の怒声、なだれこむような音と、すさまじい衝撃に、感じられている。

 厚み、の触覚があると思う。厚い、薄い、を、指で、手で触って確認、考え、捉える、感覚と思考の結果としての、厚みの触覚。それが、いまのわたしには、完全に壊れて、どうしようもなく、ふれるすべてのものが、ぐるぐるとねじれて、判別がつかなくなって、物の表面、から、いまその感覚は不意に途切れてしまった。

 

 昔から高熱を出して寝込むとき、具合の悪いときに、この感覚の暴走、はたびたび起こっていて、音、触覚、厚み、大きさ、などが、かきまぜられたようになって、そういったものを捉える感覚、理解する思考が、めちゃくちゃに繋がって、それはすさまじい恐怖と不安を私に押し付けてくる。何度かこれを訴えている気がする。文章を書いている最中に、この感覚の発作が起こることが多く、そのたび、必死に自分の感じている状態を書き記そうとして、そして発作が終わってから、その文章を見て、頻繁に削除している。そういう状態の自分でないといまいち理解できない部分と、いわば素面の自分でもなんとなく「ああ、あの苦しい状態のあれか」とわかる部分が混在した文章で、その当座に感じていた気持ち悪さ、吐き気、が読み返すことで蘇るような、すこしマシになって曇りがとれるような、どのみちあまり読み返しているとまたぶり返しそうになる。段々と、感覚がおかしくなっている時、まともな時、の差が無くなっていくような恐怖もあって、指先、指先の重要性、を強く認識する。

 指先の重要性?いきなり出てきた言葉でよくわからないと思う。私にもよくわからない。たぶん解釈していくと、こんな具合になる。

 

 知行合一、は、私の解釈でいえば、インプットがあった場合、かならずそれに対応したアウトプットがある、アウトプットがない場合は、そのインプットは無いに等しい、になる。ここから少し脱線する。

 自分と世界の接点、だとか、心、というのは同じ場所にあると思っていて、それは指先、自分の指が触れるとき、ものに触れるときの、その輪郭、接触する一点に、心、自分と世界の接点、がある。どういうことか。

 目で物を見る。これが知、インプットにあたる。そして、見たものに、手で、指で触れる。これが行、アウトプットにあたる。物を、見て、触れる。これが一体何を行っているか、といえば、感覚と思考の結びつきを強めること、そして、物事に干渉する、ということに他ならない。うまく説明できているだろうか?飛躍が多く、私独自の理屈でもって、ぐちゃぐちゃに話している気がする。心は指先の表面にある。

 人が干渉できる範囲、というのが、その人にとっての世界の範囲、可能の世界、で、先ほども述べたように、見えて、触れる、ものが世界、また、その視界や手の届く範囲が、その人の心になる。さっき指先の表面に心がある、輪郭に宿る、と言ったばかりなのにもう話が変わってしまったが、だいたいそのような具合で、なおかつあまり厳密ではないし、世界をとらえる感覚というのは揺らいでいるので安定しない。

 どうでもいい例外になるけれど、あなたが密室のモニタールームに居て、世界中に仕掛けられた監視カメラと爆弾のスイッチに、その部屋から自由にアクセスできるとして、それでもやっぱり何の理屈も変わらなくて、見える、触れる、範囲が技術的に広がっている、という、結局それは例外にはならない。今書いてみて思ったけれど、どうでもよくはない気がする。当人にとっての世界の範囲、心が及ぶ範囲、が技術的に拡張可能として(実際に拡張可能で)、それは面白いことだし、もっと、もっともっと飛躍したアプローチで、それを書いていけたら、実現できたら、いまだ誰も持ち得ない、知り得ない感覚や思考を創造したり、見出されていない行動可能範囲、をそこに見つけられるわけで、なんかもう完全に何の話をしていたのかわからなくなってきたが楽しいので良しとする。書きながら考えていて楽しいとありがたい。最近めっきり文章を書いていなかった。ひさしぶりにのんびり書けて楽しかった。とはいえ原稿が白紙なのであまりのんびりしていられない。焦ってどうにかなるわけではないからのんびりします。

隣人

 簡易で散漫な日記、人と話したこと、考えたことの覚書。
 
 人と遊ぶ、普段からよく遊ぶ友達をつくる、そういった友達がいる、というのは、それを成立させるための条件が幾つもあって、だから一人の友達と一週間ほぼ毎日仕事上がりに遊ぶみたいなのは難しいよね、何人かの友達に分散して、それぞれの日に暇で空いてる人を呼ばないとそういうことはできないよね、という話をした。
 遊ぶためには時間とお金、体力気力、そして遊ぶ相手との仲の良さ、遊ぶ場所と地域が通いやすいかどうか、が絡んできて、だから仕事に関していえば、拘束時間が短く、給与がそこそこ良くて、体力気力を消耗しすぎない、仕事上がりに遊ぶだけの余裕がある程度の、そんな激務じゃなくて疲れない仕事に双方が勤めていると好ましい。この時点でかなりの好条件を望んでるんですよ。現代でそんなゆったりした暮らしをしてる高等遊民そんな居ないんだよ、難しいよ、というのがひとつ。稼ぎが少なくて時間も無くて毎日くたびれて家帰って寝るだけ、土日ですらお金使うような遊び方してない、そういう生活スタイルの人のほうが多いんだから高望みだよね、と。
 次に友人、ないし友人になる前の、そこまで親しくない知人と仲良くなる方法。どうしたって最初のコンタクトの段階では人と話が合わないのが普通だと思う。稀に最初から気が合って、そのままずっと遊んでる、ということもあるけど、それもやはりレアケース。どうやって、出会った人たちの中で、親しく遊ぶ仲になる人を見つけ出すか、また親しく遊ぶ仲になれそうな人と出会うか。また、出会ったあとに、どのように親交を深めていくか。
 相手によって、どんなコミュニケーションの仕方が好みか、集団の中、ロケーション、その人の気分や状態、自分と相手の経緯、趣味嗜好、人間関係の築き方、それぞれに合わせて、適切な一手を打ち続けて、すぐ打ち解けるなんて、そういうのは土台無茶なことを言ってるし、そんな簡単にスムーズに人と仲良くなったりはしないんですよ。本来は。本当にそこもレアケースが存在してて、出会ってすぐに十年来の友人みたいになっちゃうこともある。お互いの親和性が高いとか、互いに歩み寄り方が似てるとか、他にも好条件が重なるとそうなる。でも普通はそうじゃないから、人と仲良くなるときはどうしたって焦らずに段階を少しずつ踏んでいく、自分からだけじゃなく、相手にも踏ませていくのが大事。
 相手のアクション/リアクションを引き出す、相手を能動的にさせる、ための、「自分に対しての動機を生み出す力」が必要だったり、あると助かるかなあと思う。それは人望だったり魅力だったり、そういう言葉で語られるもので。マイナスの動機も含んでるから、たとえば執拗な嫌がらせとか、ストーカー被害とか、そういうのも含めて、自分に対して人が何かしらの行動を積極的に行うような要素、を多く持つ人、人からよく話しかけられる、誘われる、好かれる、嫌われる、が多岐に渡って多量である人は、それだけの苦労もあるから、功罪あるだろうけれど。
 
 信頼って蓄積なんですよ。積み立てられる。毎月、毎日の掛ける額に応じて保障や満期の額も大きくなる。人に対して大きく信頼を積んでおくとそれだけの見返り、もっと良い言葉で言うならば、しっかりした関係を築ける。でも、偶にこっちが積立のつもりで掛けてた信頼や恩義を掛け捨て扱いにして、まったく蓄積しない人が居て、そういう人は早い段階で、そうであることに気付いておいたほうが良かったりする。人に対して強い影響力を持っていて、信頼関係の築き方さえも左右して人を変えられるなら、そういう人に対して、ちょっと恩着せがましくて御節介で、恐怖すら感じるくらいの人格改造や価値観の変容を促して、信頼を蓄積する人に変える例もあるけど、そこまで面倒を見る義理のある人ってそう多くない。自分と親しくする人、どうしても信頼関係が必要である人、に対してでさえ、そんな働きかけ方ってそうそうできるものではない。あと普段は人からの信頼を蓄積しているのに、特定の人物に対してだけ掛け捨てにしたり、すべてを無かったとすることもあるし、そういう人、関係は発生、存在しうる。すごい人格者のように見える人でも誰に対しても同じように親しいわけじゃない。どこかで、特別な誰かに対してだけ、すさまじい対応をすることはあって。
 
 人間はみんな意思疎通に異常を来した化け物で、どっか狂ってるところがあって、そして逆も然り、どんな異常なコミュニケーションを取る人にも、どこかしら一貫性や規則、筋道だった理屈があって、何に基づいて行動しているか、が違うだけ、と一元化して考えることができる。あくまで考えることができるだけで、一元化したり還元したりするのは思考を整理して現実を棄却して、物事を記号化するための手段にすぎないから、そこにあるのは結論ではなく途中式のための演算補助。
 思考様式というのは常に結論ではなく過程を楽にするためのものだから。結論はいつも最後に現実が決める。
 
 人柄、人となり、コミュニケーション、遊ぶ、ということ自体が、その全てが「遊び」にも「意思疎通」にも入っていて、だから遊び相手を得る、仲良くなる、遊ぶ、というのは、コミュニケーションだったり自他の人柄の把握で、遊ぶ、わかる、仲良くなる、遊ぶ、わからなくなる、疎遠になる、遊ぶ、わかる、仲良くなる、あそぶ→わかる→あそぶ→わかる、を延々とぐるぐる繰り返すサイクルになっている。遊ぶ、と表現したけど、一緒に働いたり共同作業をするのも含めて、そう呼んでいいかなと思う。
 
 人と生活するってことは、全部わけわかんないくらい負荷のかかる大変な重労働で、そして大変な重労働は全部めっちゃ楽しかったり苦しかったりするコミュニケーションで、そんな七面倒臭い意思の疎通の繰り返しは遊びに繋がっていく。だからそういう面倒くさいの捨て去って閉じこもるのは楽だし、実際コミュニケーションに対して人間が割いてるリソースって膨大だから、そこを割かないようにすることで驚くほどのリソースを確保して労力を一つの物事に集中することができる。だから何も無理に苦手なことや無駄なことする必要は無いんですよ。ただ自分が欲しいものが、何であるのか、のところにコミュニケーションが関わってきて、その技量が仕事や遊びの質を、自分の充実感を左右するなら、上達しといて損はないし、上手くなればなるほど簡単で楽しくなっていく。自分のやりたいことに必要なものを準備するのは何するにも大事、という当たり前の話で、ベンチプレス100kg持ちあげたいなら筋肉要るし、良い写真が撮りたかったらカメラと撮り方の技術要るし、そこの準備が出来てないまま無理すると危なかったり、がっかりしたりする。
 
 気持ちって大事じゃないなって、よく感じる。疎かにしていい、というわけじゃなく。人間に心とか精神とか無いんですよ。あるのはただ身体と、身体の内臓のひとつである脳に活動電位があって、本当にそれだけで。人間の気分を大きく支配しているのってむしろ肝臓や胃腸の調子だったり、栄養が足りているかどうかが大きくて、身体が健康であった場合、ストレスだったりコミュニケーションの不全だったり、そういったことへの対応も比較的スムーズだし、ダメージ受けにくいし、なにより体力に余裕があれば、ある程度マシな振る舞いになる。脳や心臓や脊髄の器質的な問題で、性格や行動が大きく決まることもあるけど、そういったケースへはそれぞれ適切な対応がある。現状そういったケースへ社会が対応できているか、というと全く進んでいないし最悪の状況に陥っている現場が多いのは今後の課題。
 すべてを一括で語ることなんかできないから何を言っても取りこぼしが多い。大事なのって、その場に居る人たちが、それぞれの、その場と関係者、当事者をよくよく観察して敬意を払って行動することで、だから何もかもが、あなたの生活する、あなたの目と手の届く範囲に委ねられていますよ、あなたの触れていくもの全て、触れることが叶うもの全てに、あなたは責任(責任って言葉だと何かが違う。意義?)を持っています、と誰か脳内FAX一斉送信でもして焼き付けてほしい。そんなの来たって何も変わんないし動けないけどさ。私だって多分いつも通り生きてくだろう。少しくらいはなにか違う一手を打ってみたい。
 ちょっとだけ変わったらいいよね。

今年観た新作映画の感想

 まだ今年は終わってないのですが暫定的に。

 

  • バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

 落ちぶれた俳優がブロードウェイで再起を図る話。簡単にいうと失敗する物語で、主人公はいろんなことに失敗して、結局最後まで全てに失敗するんだけど、そこに余計な寓意とか感慨みたいなものは無くて、超かっこいい映画でした。カメラワークが凄い。今年観た映画の中で、今まで観てきた映画の中で最も鮮烈で、喉笛に噛み付いてくるような獰猛さがあった。

 

 

 ちゃんとエンターテイメントだった。悪いやつが燃えながら悲鳴あげて水に落っこちる映画好きなんですよ。あと伊勢谷友介の演技が良ければ映画の評価を全体的に押し上げることが可能なので邦画全部に伊勢谷友介を出そう。スパイ映画として普通に良くてびっくりした。

 

ジョーカー・ゲーム(Blu-ray 通常版)

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  • リピーテッド

 前に感想を書きましたが

映画『リピーテッド』を観てきた - さよなら帝国

 しばらく経って思い返すとそんなに悪い映画ではない。ただどうしても『メメント』と比較したときに単純に面白くない。意外性だとか新奇性がゼロなので、記憶喪失モノ、前向性健忘モノを全く観たことがないよ、という人ならソフトランディングな一本目としては良いかもしれない。劇中やたら不倫が多いので、不倫を疑われている人は一人でこっそり観ましょう。マーク・ストロングが注射器持って走って追いかけてくるシーンがすごく良いです。怖い。他は普通。

 

 私立探偵がロサンゼルスをふらふらする話。探偵もロス市警も渋くハードボイルドに締めくくってくれて、というか映画全体が軽妙洒脱で、決めるところ決める、控えめさと過剰さの配置が絶妙な映画でした。

 

 

  • ミッション・イン・ポッシブル:ローグ・ネイション

 上質さに欠けてる。そこが良い。安心感しかないですからね。スパイ映画なのに。観るエンヤって感じでした。イーサンがピンチに陥る→謎の女スパイが助けてくれる→イーサンが惚れる→フラれる→女スパイに情報持ち逃げされる→イーサンまたフラれたのかよ元気出せよと仲間たちが慰める→でも女スパイを助けに行く、の流れは40年くらい続けてほしい。例えばだけど私いまオムライス食べたいんですよ。40年後でも私は普通にオムライス食べたいと思う。そういう位置にある。40年後にもミッション・イン・ポッシブル観て「俺らもイーサンも変わんねー」って言いたい。

 

 面白い映画体験だった。思い出すとめっちゃ笑えてくるので観て良かった。鎧の巨人の質感が特撮のスーツで、特撮モノとして観ると良いところと御約束がしっかりあって、そしてそこ以外に難色を示される部分が山程詰め込んであって贅沢な作りだった……なんなんだ……前編の卑怯なくらいのギャグ構成の面白さに慣れたせいで後編は普通の映画に見えてしまって物足りなかった。草なぎ剛ピエール瀧が二人並んで立ってると「くそやばいキチガイだ!」感がすごくてズルい。あと映画の時間が短いのに白い部屋で話してるシーンが長いのは尺が心配でスリルあった。正直な話こういう問題児的な映画のほうが観るの楽しい。学芸会で友達がセリフ忘れてごちゃごちゃに誤魔化して、後で楽屋裏で「めっちゃ間違えた……」と落ち込んでるときに「ナイスアドリブー!」と言いながら肩パンしてる気持ちになる。ちょっと違うな。違うんだけどニュアンス的には近い。

 

 4DXに合ってた。

 

  • キングスマン

 スパイ映画のガジェット的な部分へのロマンを程よく散りばめていて、そして悪趣味な演出が最高にイカしてた。下品、悪趣味、という道具の使い方が上手い。冴え渡るようなアクション。

 

 

 

  • ジュラシック・ワールド

 予告編を観たときに、お兄ちゃんすごい意地悪そうに見えたのに、本編を観たらお兄ちゃん普通に最初から面倒見の良い優しいお兄ちゃんだったから「お兄ちゃーーん!好きーーー!」ってなった。社長のキャラが良すぎる。3Dで観たらテーマパーク感が強くて楽しかった。シンプルな構成なんだけどシリーズ中屈指のドミノ倒し感が有って、多分だけどジュラシックパークシリーズ最大の売りの「状況の悪化」という点に関しては描き方がすごく良い。恐竜が好きな人はダイナソーとか観たらいいよ。ダイナソーの内容もう完全に忘れた。南とか目指してたと思う。南を目指す映画は名作だぞ。北に逃げる映画も名作。

 

 

  • ピクセル

 高精彩で極彩色のクソ映画。全方位敬意欠落マシーン。なんかダメな点はすごく多いんだけど、そもそもこの映画はそういうダメな点をひたすらダメにすることでゲテモノ化することを狙ってるから、ファミリー向けでもオタク向けでもなくて、誰にも向けられてない娯楽なんだと思う。天に唾する、と言いますが、この映画は完全にそれです。偏見とかイメージとか国辱から入ってくところが良い。

 

 

  • ジョン・ウィック

 拳銃の構え方にCentar Axis Relock Systemというものがあって、主に屋内、近距離での射撃と格闘のために拳銃を握りやすく、保持しやすい(叩かれて落としにくい)、反動を押さえやすいようにする近接戦闘のテクニックなんですが、この映画は主人公に全編通してそれを徹底させていて、ガンアクションのシーンに関しては最近のアクション映画の中で一番考証がしっかりしている、なおかつ魅力的なものになっています。ひたすらかっこいい。かっこいいけど「魅せる」アクションじゃなくて、淡々と確実に敵を殺していくもので、無愛想なタンゴを最低限のステップで踊ってる、そんな感じの洒落っ気ゼロ殺し屋映画として非常に良いです。あとは裏社会の設定がかっこいい。ただシナリオとかは全然無くて、タメ、スリル、がゼロなので、映画として観るときにそういったところを期待すると肩透かしはあるかもしれない。とにかくアクション!

 

 

  • 心が叫びたがってるんだ。

 作劇のために不自然なくらい幼少の子供につらく当たる親が出てくる作品きらい!とは思うんですけど、そういう部分が別に創作物特有のものじゃなくて、実勢にああいう親はいるんだよ、と教えられて、そうなのか……と世の中に嫌気が差してから観直すと、作品の中のご都合的な部分、ある程度の無作為な部分、それぞれに魅力と作り込み(と敢えて作りこまない部分)の丁寧さを見て取って、いいや、ちょっと停車します。私も自分で自分に掛けた呪いを解こうと思いました。普段全然感情移入とか共感とかしないし、映画に対してそういうものを抱いたと公言するの月並だから嫌だ、と思ってるんですが心がズタボロになってて素直な気持ちで観たら「私も成瀬順だ……」ってなった。もし余裕のある状態で観てたら面白かったねで済んでる。瀕死の状態で観たからこそヘンテコな自分位相に取り込んで観ることができてよかった。あとフラれヒロインが好きなのでそこも良い。ワイルドアームズ2のリルカが今でも好きなように成瀬順が私の中に深く刻み込まれた。

 

「心が叫びたがってるんだ。」オリジナルサウンドトラック

「心が叫びたがってるんだ。」オリジナルサウンドトラック

 

 

 悪役に覇気が無い。記憶の中でスターウォーズを美化しすぎてたのか、幼少期の映画をほとんど観てない状態でシリーズ全部観たからこそ感じていた面白さを今はもう感じられないのか、それとも……と物足りなく思いつつも美術は本当に良い。印象的に見せたいシーンを長く続けるのはかっこわるいなと思う。もっと見得を切ったらすぐ動いたり転換したりのほうがインパクトは強いんじゃ……どうしてそういう部分で過去の演出を真似ないんだろう……。CGもディズニーっぽくなった。今後の展開の中でどう寄与していくのか気になる点が幾つかあって、これまでのシリーズよりも細かい要素要素が多く感じて楽しみ。話に絡んでこない原生生物が砂から顔出して登場人物を見送るシーンがあると、あっ、スターウォーズだ、スターウォーズのこういう部分好きだ……と非常に満足する。コンセプトやデザインを楽しむ。

 

  • ガールズ&パンツァー劇場版

 映画的だった。アニメ映画って導入にやたらと尺と説明ともっともらしい理由付けを割いてて、結果的に頭がデカい痩せた犬みたいなクリーチャー化するじゃないですか。あれイヤなんですよ。ガルパン劇場版は毛皮の剥がれたイノシシだった。ものすごい太っててタフ。「廃校は撤回するって言ったじゃないですか」「あれは口約束ですから」とまた廃校の危機に陥る、というTVシリーズを雑に引っ繰り返して始まるところに不満を持つ人がいるのも分かるんですけど、この映画自体がTVシリーズの後のエキシビジョンマッチみたいなものなのでストーリーの最初で本編と上手く噛み合ってない展開が出てくること自体には特に問題はないのでは?と思います。誰もが納得いく理由と展開を用意したところで別にそこに労力割いてもリターンが少ないし、何より戦う理由が切実であるかどうかは健闘に必要ないんですよ。味方も敵も勝ったあとの褒賞のためじゃなく「勝つ」ために試合に臨んでいて(これは脚本上ではなく描き方としてそう見えるように作られているということです)、その潔さを演出するために、むしろ雑な導入が生きてくる。映画一本の中に導入部分と試合部分に断絶があって、試合中に「ここで負けたら、廃校になっちゃう!」「負けられない!」みたいなこと言わないのがすごく良い部分です。

 

  • コードネームUNCLE

 いわば元祖スパイ映画。面白い。格段に面白い。大味な脚本、監督の癖が強く出る演出、魅力的なキャラクター、コミカルな掛け合い、全体的に「すごく良く出来たコント」みたいなところがあって、もし生まれて初めて観る映画がこれだったら映画のこと大好きになっちゃって映画観まくるんじゃないかと思う。昔からある手法ですが最近は特に流行りの「同じ画面の中にピントを合わせてある人物と他方向の人物や風景を映し込むために鏡を使う」というのがあって、先に上げた『バードマン あるいは』で楽屋への来客と中に居た人物を鏡を使って同時に映す、『ピクセル』でクローゼットの中と来客を同時に、があるんですが(どっちも撮り方が上手い)、UNCLEでは劇中とあるシーンで、それを車のサイドミラーを使ってやってるんですよ。車のサイドミラー小さいじゃないですか。あれに人物の顔を映して、サイドミラーの周囲のボケた背景をそのまま画面にする、という。この手法は『フォンターナ広場 イタリアの陰謀』だったかな?でもやってた気がするんですが、すごく印象に残るし、それをギャグでやってくるから本当に良い。いやフォンターナ広場じゃないかも……思い出したら追記します。あとは漫画の枠線みたいなのを出して画面を分割して、バディが合流したときに枠線を下にスーッと縮めて画面をくっつける、という部分が面白かった。『キングスマン』でもスパイ候補として修行してるシーンと、工場の量産シーンを枠線で区切ってスクロールして同時に見せつつ要約する部分がありましたが、UNCLEだと見せ場にしていいはずのアクションシーンを容赦なくコマ切れにするので、スパイ映画にアクションを求めてる人にとっては爽快感が足りないかな、と思う。そこが潔くて魅力になっている。

 

「コードネームU.N.C.L.E.」 オリジナル・サウンドトラック

「コードネームU.N.C.L.E.」 オリジナル・サウンドトラック

 

 

 

 長々と書きましたが、今年の映画でおすすめを三本あげるとしたら、

バードマン あるいは

コードネームUNCLE

インヒアレント・ヴァイス

です。

 アクションが観たい!って人はキングスマンとジョン・ウィック、ミニ四駆が観たい!って人はガールズ&パンツァー、つらい思いがしたい!って人は進撃の巨人実写版がおすすめ。

 

 観たことを忘れてて書いてない映画と、観たけど観なかったことにしたい映画があるので、ここで一旦終わり。

11月と6月に新宿は怖い

 6月の時の肺炎に続いてまた今回も新宿から帰ってきてすぐ熱出して倒れて

「また肺炎……勘弁して」と思ったら肺は無事でした 肺以外全部ダメ

 

 ゲーム実況が好きでよく見るんですよ。理由は色々あって、まず

・ゲームが下手

 これが最大要因。自分でプレイしてると時間かかるし見逃し多いし最悪クリアできない。元々自分でプレイしてるよりも友達が遊んでる横で攻略本めくって案内する係でしたからね でもね 間違った情報教えて死なせるみたいなことは よくありました 車の助手席に座らせると運転手が死ぬタイプ的な この話はやめよう

・もう理由あげるの面倒になった

 箇条書きするの向いてない。なんか既に上記の理由だけでいい。プレイが上手くてさくさく進んで編集も上手くて要所要所を魅せてくれて解説も付いて、と面白さの凝縮がされているのと、あとは、そう、挙げるならこれです。

・既に手に入らないハード/ソフトのゲーム

 気になったゲーム調べてみたら、そのタイトルが廃盤になってたり会社もう潰れてたり、中古でも出回ってなかったり、日本語訳が発売されてない、日本語化modも無い、MSXとか98じゃないと動かない、とかね、そういうのにぶつかった時に為す術が無さ過ぎて、そういうとき、検索結果の端に、幽かな光が見えるんですよ。そう。

 

 ゲーム実況動画が。

 

 入手困難、入手しても遊ぶ環境を整えられない、仮に出来てもプレイが下手、英語とかロシア語わからない、で匙を投げてる時に、目の前に全ての条件をクリアして丁寧に動画まで作って上げてるプレイヤーが居るわけですよ。やった!観るぞー!と観始める。すると実況者の人はだいたいこんなことを言ってる。

「このまま埋もれてしまうには勿体ない名作だと思うのですが、再発やリメイクの望みはなく、どうにかしてこのゲームの魅力を人に伝えたい、そうだ、遊んでもらうことは殆ど叶わなくなったけれど、プレイして、動画を撮り、それをアップロードすれば、なんとか魅力は伝わるのではないか、そう思い動画を作りました。」

 

 殊勝だー!お前再生数欲しいだけだろとか少しは思わなくも無いんですが、だいたいそういう動画はゲーム自体が古いかマイナーかで再生数400から1000くらいで、それもないので、ただただありがたい。しかもマイナーなゲームの実況動画あげてて殆ど誰も観てないのにゲームの最後まで完走してる。真面目だ……もしかしてこの人はゲームソフトと一緒にガソリンかぶって心中する前に最後の思い出作りをしてるんじゃないか……?そう思えるくらいのゲームへの情熱があって、自分はここまでゲームやりこめたことないな、と感心したりして、明らかに自分でゲーム遊んでるより楽しい。拾えるアイテム全部拾って読めるテキスト全部読んで、気の長くなる作業を続けて、その録画を、いや言わなくてもわかる部分はいいや。

 

 そろそろ飽きたので脱線するための話の逸れポイント探します。なにがあるかな。あーそうだ。PewDiePieってユーチューバーが居るじゃないですか。スウェーデンの。世界一位ユーチューバー。世界一初恋。そういえば世界一初恋のOP歌ってた喜多修平ってどこ行ったんだろう。最近見ない。ペルソナ3のOPとか好きだった。逸れポイント多すぎる。

 PewDiePieに戻ります。彼のホラーゲーム実況が結構好きなんですよ。どこが好きかっていうと、普段は英語で喋ってるけど、びっくりしたときに母国語が出る、っていう。

 

 びっくりしたときに母国語が出る

 

 これキャラとして強すぎると思うんですよ。友達の妹にフランス人が居るんですが、普段は日本語で喋ってるけどお兄ちゃんと喧嘩してブチ切れたときに突如にフランス語に切り替わって罵詈雑言を言いまくるらしくて。良いなーと思った。最初その話を聞いたときは「妹がフランス人ってなんだよ 夢を見るなら神奈川県民くらいにしとけよ」と思ってたのに本当だったから悔しくてちょっと泣いた。でも兄がフランス語わからないのを良いことに本当は愛の言葉をまくし立ててたり好き好き言いまくってたり悪口言いつつもデレてたりしたら、それも良いなと思う。びっくりしたとき以外でも何かの拍子に母国語が出るの羨ましい……。フランス人の妹欲しい……パリジェンヌじゃないくせに調子乗るなよな!とか言って怒らせて、な、なによ、私だってパリに友達いるし石畳好きだしピアノは古いほうが良いし性格終わってるし実質パリジェンヌだもん!お兄ちゃんのばかーー!!ってカバン投げつけられて泣いて走り去られたい。それでカバンの中を見ると時限爆弾が入ってるんですよ。えなんで?いや待って。普段から時限爆弾好きだけどよく考えたら時期的によくないと思う。パリだし…………本当に……なんの他意も無く……パリジェンヌと……時限爆弾が好きなだけなのに……なんか……だめだ……世界が平和になってほしい。

 あとびっくりしたときに母国語が出る、ってなんか、びっくりしたときに母乳が出る、みたいで出産直後の気を付けなくちゃいけないことや新しくママになる人への教えておきたいこと~、という感じの育児本とかサイトの特集に見えてきて、人は生きていくんだなあ、みたいなことを考えた。

 独身なのに不妊治療とか育児の本とか最近やたら読んでて、なんで読んでるか、というと、数日間めちゃ具合悪くて家から出られないので片っ端から本読んでたら、ほぼ全部読み終わっちゃって、なんか無いかな……と家探ししてたら出てきたのがそれだった。

 これは最近初めて読んだものじゃないんですが、育児マンガの『ママはぽよぽよザウルスがお好き』、すっごい面白いんですよ。それこそ自分が幼稚園児の時に、母の友達の家とかで預けられてる間に読んでたんですが、お母さんが朝眠いときに急いでお弁当つくって子供起こして幼稚園バスに詰め込んで、という部分のひーひー苦労してる部分とか、子供のよくわからんぎょっとするような発言とか、そういう描写がまずあっさりしつつ要点抑えてて良い。そして娯楽として普通に楽しめる。育児の助けにもなる。いや育児はしたことないけど実用性のあるテクニック載ってた。ちょうど冷凍食品の充実し始めた時期だから、凍ったままお弁当箱に入れる、というテクニックを最初に広めたのも多分ぽよぽよザウルスなんじゃないかなと思う。小さい時に読んで面白くて、今でも面白いから単に私が好きな漫画ってだけかもしれない。でもそんなこといったらキリないじゃん!キリは何に対してもないんだよ。

 

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ゆっくりサンドイッチ食べながらボートレース眺めてるシーン好き

 ネタバレを避けるためにタイトルを伏せるんですが、あの映画、二回目観てきました。好き。主役三人全員かわいい。

 

 

「せっかく金庫破ったしなんか盗まないと……なんかあった!これ見て!これなに!?」

「パーツ」

「あっ……そう」

 

 

 あれを踏まえて観るとこの部分もそうなんだろうな、という気付きが何度もあって、同じ映画を何度も観るの楽しいですね。今年は同じ映画を二度三度四度……一番多いやつで六回観てる。面白い映画が多かった。

ぷぁー/歌会開催しようかなの報せ

 トランペットの発表会に行ってきた。吹きました。ちょっと失敗。広いホールで大音量で鳴らせたので楽しかった。楽器の発表会やコンサートを個人でやるのって初めてなんですが、なんだか控室や舞台袖の空気がお祭り前の準備期間っぽさを携えていて面白くて(控室に居たバイオリンのおじさんと初対面なのにめっちゃ和気藹々と話せた)、今まで上がり症だから避けてきた発表会もこれからは出てみようかな……と思う。

 

 毎日毎日、やる予定だったのに着手しなかったことを数え上げて「これもやってない、あれもやってない、今日なんも進んでない!」と気に病んで無限に凹みまくる癖があって、それをここ最近は意識して抑えこんで、「ごはん食べて歯磨きしてお風呂入って寝たから充分」「何もせずぼんやりすることで脳の疲れが大分回復したと思うので良し」と背伸びせずのんびり構えるようにして、ちょっと楽になった。これも割と無理をしてて、実際どうか、というと視界の外に絶大な闇が押し寄せて来てて、そっち向いた瞬間に囚われそうなんだけど、でも、まあ、なんとか逸らし続けていられる時間を長くしていこう。

 

 11月中の(自分にとって)大きめのイベントが全て一段落して、12月は遠方の友達と会う約束だったり、友達と年越しする店をどこにするか探してたり、そのぐらいで割とゆったり過ごせそう。受験生だけど。そっか私受験生じゃん……え……なんとかなる。なんとかするぞ。

 

 あと12月中に東京で歌会を開催したいなと思っているので、もし興味あって参加したいな、という方はTwitterの方でお声がけください。定員は8名くらいを予定しています。変動して最低5名、最高12名くらい……かな?お題は今のところ無しで、自由詠、場所は銀座か新宿あたりの貸会議室。人数が少なければ二首提出も良いかなと思います。詳細決まり次第また。