少女終末旅行の最終話の一話前の話をしたい

 2018年1月12日。気温はマイナス3℃。これは日記かもしれないし、誰かに宛てた手紙かもしれない。今日はweb漫画として連載されていた「少女終末旅行」の最終話の更新日だった。最終話(第42話)の1話前、第41話にて爆発的に膨れ上がるモノローグの熱量が凄まじかったので、いったい最終話はどうなってしまうのだろう?と期待と不安のようなものを抱えて読み始めた。さて、最終話の感想は一旦端に置いて、第41話の話をしたい。その41話でのモノローグの熱量が凄いと書いたけれど、実際には熱量と呼ぶより、もっと厳密な表現があるように私は思う。書きながらその疑団を拭えなくなったので話を巻き戻す。

 

 少女終末旅行の第41話のモノローグが帯びているもの、それは喩えるならば、よく使われる表現にするならば、ロウソクが燃え尽きる前に一瞬強く輝くこと、「灯滅せんとして光を増す」のような、最期の瞬きのような熱だった。私は何かを考えるときに無数に例え話を作り始めるのを趣味にしているので幾つか追加して持ちだしてみよう。ちなみに無数の例え話を次々と持ち出す理由は何かというと、より細かく正確なニュアンスを表現したいからだ。この細かく正確なニュアンスというのを求めるのは、物事の在り様をつぶさに観察したいがためでもあるが、自分がその在り様に感じたもの、言葉になる前の感情を追いかけ続けているからでもある。その向きが強いときもあるし、そうでないときもある。何かに夢中になるとき、さして夢中でもない時にも、厳密にはどうなのか?を際限なく考え続けている。それが結果として何を語るにも多くの言葉と表現を必要とする。多くの言葉と表現が必要とされ、幾度も重ねられ、角度を変え、迂遠になり、冗長になり、いったい何を考えていたのかぼやけることで、そこに結ばれる像は逆にくっきりとしてくる。そのくっきりとした像が私にとってだけくっきりとしているのではないかという恐れがそこに付きまとい、私はそれを他者にとっても確認のできるくっきりとした像に落とし込むためにピントを調整し続ける。

 やたらと長い脱線のようでいて実はこの一連の文章は少女終末旅行の第41話のことを考える補助線になっている。なっているといいが。ひたすら判読性が低い。

 第41話のモノローグが帯びているものを喩える段に戻る。灯滅せんとして光を増す、以外にそれを喩えるなら。それは沈思黙考するとき、瞑想するときに、かえって周囲の環境音などが細かく聞き取れるようなものだ。それは寒い日に人と手をつないだとき、その人の手を温いと感じるような。それは強い恐れを前にしたとき、かえって湧き立つ勇気のような。それは鉛筆で紙を一枚黒く塗りつぶして遊んだ子供がその紙に消しゴムで引っかき傷のごとく細い線を描くような。それは祈るときに祈り以外の不純な気持ちに気付いてしまうような。それは人が亡くなったあと親しかった人たちの記憶の中で故人が息づいていることに語らいの中で触れて喪が明けるような。それは死んでいく人の胸に耳を当ててかすかな心音が消えていくのを感じるときに未だ生きていることを強く感じるような。それは部屋に二人きりでいるときに相手の立てる物音にふいに注意が向いてその音を聞き取り続けるような。それは今まで壁に飾っていたカレンダーを片付けるときになってカレンダーに施されていた意匠に気付くような。それは知っていたはずなのにまるで知らないみたいに過ごしていたような。

 そんなものだ。それは熱じゃない。光じゃない。音じゃない。それは本当にただ失われていく過程だ。それはどんな形をしていたエネルギーも無へと近づき続ける時間、その時間を無限に細分化したときに生まれる、理論上の永遠に対して感じる感傷だ。いつか、この宇宙が冷えて小さくなって消えていくときみたいに、宇宙に内包されるすべては様々な形で親である宇宙の未来の模倣をして先立っていく子供たちであることを知ったとき、子供たちの垣根が壊れて消えて、すべては同じく等しく同じ胎に居るのを、まるで悟ったみたいな気持ちで理解したときの、主観的な時間が現実を無視して恐ろしい分解能を発揮して自分では到底追いきれない未来に手を駆ける無限への感動と畏怖だ。それは本当にただそうなんだ。それは理性と知識が正しく統合して行われた理解の帰結として、最後に待っている、人間の最後の思考だ。人は終わりを考える。その考えにも終わりがある。

 

 さて、そういうものを帯びていると私が感じた少女終末旅行の第41話のモノローグの話を始めよう。この物語の二人の主人公、チトとユーリは旅をしてきた。核の冬のようなポスト・アポカリプスの、文明が死に絶えてしまったあとの時代を、生き残りの少女ふたりは一緒に旅をしてきた。ひたすら文明の残滓の建造物を、上へ、上へと昇っていく旅を。その過程で、乗っていた車や、持っていた本と日記、わずかな食糧と燃料を失ってきた。ふたりは今、塔の中にいて、その階段を昇る。そして遂にランタンの灯が消える。暗闇の中で二人は手をつなぐ。(先ほどモノローグの帯びるものとして一例に出した、寒い日に人と手をつないだとき、というのは、比喩ではなく直喩になる)。手をつないだままチトとユーリは塔の階段を昇り続ける。途中で手袋を外して直に手を繋ぎなおす。(この、直に手を繋いだ瞬間から会話が途絶え、チトのモノローグが膨れ上がっていく)。

 

 闇の中ふたりで階段を昇る。いま二人には二人以外の何もない。つなぎあった手を互いに握り返す。そしてチトのモノローグだったはずの、漫画のコマの中の、つないだ手から出ている吹き出しに、ユーリの台詞が混じる。二人はいま一体化し、ひとつの存在のように伝わりあう。チトのモノローグは語る。「私たちはもう…ひとつの生き物になってしまった」

 そしてチトのモノローグは続く。初めから本当にそうだったとすれば、私の手、ユーリの手、空気、建物、空、触れ合っている世界のすべてが、私たちそのものみたいだと。

 

 いま世界の皮膚は融けている。ふたりしか居ない世界で、ふたりは同じ世界の、同じ空の、同じ建物の、同じ空気の、同じ闇の中、手を繋いで階段をのぼる。その中でチトの主観的な世界の輪郭はどんどんぼやけていく。自分とユーリの間の隔絶は消えていった。同じように他の全ても消えていく。闇を表す黒いページの中に、「私たちそのものみたいだ」というモノローグと、チトとユーリの姿だけが描かれる。描かれたふたりの姿に、他のすべて、描かれなくなった世界が詰まっている。

 

 そして唐突に光が差して闇は晴れる。モノローグは止み、ふたりは再び声を出す。光の中、塔の最後の階段を前に、ふたりは立ち止まり、お互いの手を強く握る。ここが第41話の引きになる。この光の中の引きが、今度は読者をふたりへと一体化させる。チトとユーリの感じる不安、どこまでも果てしなく続くかに見えた闇の中の階段の先にあるものへの好奇心を、読者に強く共有させる。最終話を前にして、最終話の一話前である第41話は強い演出効果を持った引きで幕を閉じる。

 

 私はここまで続きの気になる「最終話の一話前」に触れたことで、いたく感動した。率直に言うと、簡潔に言うと、「少女終末旅行の最終話の一話前の第41話すごい好き」。それだけのことを、できるだけそこに感じた心の本当の動きを追いたくて、この記事を書いた。最終話の感想はあえて書かない。第41話を読んだあと、最終話を読まなくても構わないほど(語弊がある)、第41話は素晴らしかった。

 

 追伸。蛇足になるが、最終話である第42話の、42という数字は、SF作品「銀河ヒッチハイク・ガイド」に登場するフレーズ、”生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え”に対して示される不可解な解答、「42」と同じである。また、チトとユーリという二人の主人公の命名元は、人類初の有人宇宙飛行を成し遂げた宇宙船、ボストーク1号の乗組員、ユーリイ・ガガーリンと、バックアップクルーである、ゲルマン・チトフから取られているのではないか、と思われる。この追伸による補足が何になるのかを私は知らない。もしかしたら、これから少女終末旅行を読む人にとって、その知識がまるで作品の一部のようになるのかもしれない。今日の気温がマイナス3℃だったことは、私にとってまるで少女終末旅行の最終話という作品の一部のようだった。ともすれば私も作品の一部かもしれない。まだ何もかも読み終えていない、あなたですら、その何かの続きや終わりの一部になりうるのかもしれない。