接触

 できるだけ、ゆっくり、丁寧に書いていく。ともすれば焦るあまりに何もかも書いてしまいそうだし、また何も書けなくなりそうだから。正確を期す、わけではなく、ただ落ち着きをもって書きたい。元から落ち着きのない私が、最近は特に冷静さを欠いていて、ずっと神経が昂ぶったまま過ごしている。よくない状態にある、と思う。

 

 鈍っていた心身を、急にものすごい勢いで動かして、かなりの無理をした結果、鈍っていた頃よりも片手落ちになっているような、変な具合になっている。良い変化と悪い変化がそれぞれあって、一喜一憂しながら、無感動も同時に行うような、態度を幾つも重ねあわせたような受け止め方を自分と環境に対して取っている。どういうことか、といえば、それは何事も無闇矢鱈と平均化して、取りうる態度、発生しうる感情、のすべてを再現するような、正しい気分、を持とうと努力するような、正直あまり意味のない、ただ疲れるだけの「感情の検分」をしている。それがなんなのか、と聞かれたら何も答えられない。なんでもないのだ。自分にとってすらどうでもいい。必要を感じて行っている思考ではなくて、ただ自動的に発生していくその過程に、無為に労力(ただほんの少しだけ気が滅入るだけで労力と呼ぶのだろうか?そう感じるほど気力体力が低下しているということは私の場合、それは労力にあたるのだろう)を消費していることが腹立たしく、また遣る瀬無い。

 

 この文章を書いている途中で、私の兼ねてから抱えている、感覚、の発作が、いま、起きている。すべての五感、主に触覚と聴覚、が、荒れ狂うように強くなり、いまわたしがタイプしているキーボードと指の触れ合う音が、実際にはほんのすこしの、ちいさな、かちゃ、という音にもかかわらず、わたしには、すさまじい轟音、おおぜいの人々の怒声、なだれこむような音と、すさまじい衝撃に、感じられている。

 厚み、の触覚があると思う。厚い、薄い、を、指で、手で触って確認、考え、捉える、感覚と思考の結果としての、厚みの触覚。それが、いまのわたしには、完全に壊れて、どうしようもなく、ふれるすべてのものが、ぐるぐるとねじれて、判別がつかなくなって、物の表面、から、いまその感覚は不意に途切れてしまった。

 

 昔から高熱を出して寝込むとき、具合の悪いときに、この感覚の暴走、はたびたび起こっていて、音、触覚、厚み、大きさ、などが、かきまぜられたようになって、そういったものを捉える感覚、理解する思考が、めちゃくちゃに繋がって、それはすさまじい恐怖と不安を私に押し付けてくる。何度かこれを訴えている気がする。文章を書いている最中に、この感覚の発作が起こることが多く、そのたび、必死に自分の感じている状態を書き記そうとして、そして発作が終わってから、その文章を見て、頻繁に削除している。そういう状態の自分でないといまいち理解できない部分と、いわば素面の自分でもなんとなく「ああ、あの苦しい状態のあれか」とわかる部分が混在した文章で、その当座に感じていた気持ち悪さ、吐き気、が読み返すことで蘇るような、すこしマシになって曇りがとれるような、どのみちあまり読み返しているとまたぶり返しそうになる。段々と、感覚がおかしくなっている時、まともな時、の差が無くなっていくような恐怖もあって、指先、指先の重要性、を強く認識する。

 指先の重要性?いきなり出てきた言葉でよくわからないと思う。私にもよくわからない。たぶん解釈していくと、こんな具合になる。

 

 知行合一、は、私の解釈でいえば、インプットがあった場合、かならずそれに対応したアウトプットがある、アウトプットがない場合は、そのインプットは無いに等しい、になる。ここから少し脱線する。

 自分と世界の接点、だとか、心、というのは同じ場所にあると思っていて、それは指先、自分の指が触れるとき、ものに触れるときの、その輪郭、接触する一点に、心、自分と世界の接点、がある。どういうことか。

 目で物を見る。これが知、インプットにあたる。そして、見たものに、手で、指で触れる。これが行、アウトプットにあたる。物を、見て、触れる。これが一体何を行っているか、といえば、感覚と思考の結びつきを強めること、そして、物事に干渉する、ということに他ならない。うまく説明できているだろうか?飛躍が多く、私独自の理屈でもって、ぐちゃぐちゃに話している気がする。心は指先の表面にある。

 人が干渉できる範囲、というのが、その人にとっての世界の範囲、可能の世界、で、先ほども述べたように、見えて、触れる、ものが世界、また、その視界や手の届く範囲が、その人の心になる。さっき指先の表面に心がある、輪郭に宿る、と言ったばかりなのにもう話が変わってしまったが、だいたいそのような具合で、なおかつあまり厳密ではないし、世界をとらえる感覚というのは揺らいでいるので安定しない。

 どうでもいい例外になるけれど、あなたが密室のモニタールームに居て、世界中に仕掛けられた監視カメラと爆弾のスイッチに、その部屋から自由にアクセスできるとして、それでもやっぱり何の理屈も変わらなくて、見える、触れる、範囲が技術的に広がっている、という、結局それは例外にはならない。今書いてみて思ったけれど、どうでもよくはない気がする。当人にとっての世界の範囲、心が及ぶ範囲、が技術的に拡張可能として(実際に拡張可能で)、それは面白いことだし、もっと、もっともっと飛躍したアプローチで、それを書いていけたら、実現できたら、いまだ誰も持ち得ない、知り得ない感覚や思考を創造したり、見出されていない行動可能範囲、をそこに見つけられるわけで、なんかもう完全に何の話をしていたのかわからなくなってきたが楽しいので良しとする。書きながら考えていて楽しいとありがたい。最近めっきり文章を書いていなかった。ひさしぶりにのんびり書けて楽しかった。とはいえ原稿が白紙なのであまりのんびりしていられない。焦ってどうにかなるわけではないからのんびりします。