戦争と全体主義

 戦争は個々人の全体主義的傾向を励起するし、全体主義は国を戦争へ向かわせやすい、と感じる。実際にそういう模様を史実から垣間見る。

それはなぜか、というものを考えてみた。

人には少なからず闘争本能というか、己が強さを証明する機会、もっと言えば「自分の属しているコミュニティが正しいことを証明する機会」に飢えている側面がある。自分の倫理観や道徳観念等、価値観に照らしあわせて、自分がそこに属するに相応しいことを望むか、自分に相応しいコミュニティへと移動する。そして、自らが正しいと思って属したコミュニティに「自分が属する」こと自体が、コミュニティからの個人への反射的な肯定につながるため、それをそのまま自分の中で自己肯定として利用する。

コミュニティが他のコミュニティと大きく決定的に対立するとき、コミュニティに対する評価はより明確なものとなる。それが例えば戦争だったりするわけだ。

一つの大きな目的が設けられ、それに向かってコミュニティが統率を図るとき、全体主義的傾向が発生する。そしてコミュニティが正しさを証明すること=コミュニティに属する個々人が強いこと、のために物事の優先順位が共有され、もしくは共有することを強制され、それを受け入れることが目的の達成以前の「正しい行動のための準備」として正しさがコミュニティ内で自明であるように扱われる。こうなっていくと勢いが増すことはあっても減じることはない。経済的に困窮すればするほど噴出した不満に対して全体主義が強くなりそれらを抑えこもうと働く。たぶん他にも色々な要因はあるけれど、全体主義の困ったところは「諸々のプラスマイナスの要因を全て統率の材料として利用しやすい」という部分で、だから盛り上がるところまで盛り上がってしまう。これが戦争から全体主義的傾向が励起される仕組み、だと思う。

逆の場合。

全体主義的な傾向が蔓延したコミュニティが、戦争へ向かう理由。

先程も述べたように、コミュニティ、そしてそこに属する個々人が抱えている「自分たちが正しいこと」を証す機会として、コミュニティ内の殆どの人にとって明確かつ簡単に理解できる目標が経済的な発展か戦争しかない。他のコミュニティと対立した際に融和政策を取ったところで、内部からの不満は収まらないし、その不満が対立を深めさせようとし、制裁や戦争を望む。そういった欲求は単純で明快だからウケが良い、というのも手伝って、そういった立場を取る者が台頭し、具体的な目標が据えられて実行してしまう。

行動の背景に、しっかりとした根拠や理由を求める人が少ない、あまり求められていない、という事実が残念ながらあって、そういった傾向が、より強い社会だと、一息で染まる、という、それだけの話なのかもしれないけど、結局のところ「今は大変なんだからごちゃごちゃ水を差すな!」と怒り出す人の声が世界のどこでも大きいので、理屈じゃなく声と態度がでかくて行動力のある面倒な人がコミュニティを動かしてしまう。理屈しか持ち合わせのない人はその理屈を通すことができない。

自由に水を差せること、というのが健全な自由なんだろうけど、水を差す人に対して好意的な目を向ける人が少ないので、やっぱり人間が社会を構築して右往左往してると全体主義的な傾向はどこかで発生してしまう。

どんなに開かれていて自由なように見える社会でも、不自由さの魅力を人は何度でも思い出す。だって不自由だと無条件で「私たちは努力している」と感じやすいから。そこに賛同した皆が努力した気になれる幸福装置。