常にスランプだと時折ヘビーなスランプが訪れたとき重ねがけになって、それはそれは鉄ゲタ

 おそらく歩みが重たいと言いたいのだろうと思う。見出しを考える係の人は都会での生活に疲れて田舎に帰りました。

 

5月の文学フリマで或るサークルさんに寄稿する予定だった原稿を仕上げられず、結局締め切りを過ぎてしまった。私は一つ何かを失敗したり難航したりするとそれが他の全てに響いてくる打たれ弱いカナヘビなので、また他のサークルさんへ寄稿する原稿の締切が迫り来るにも関わらず、そっちも書けなくなっていて、何よりも自分の本がどうにも進まないまま全部お手上げだなー、と大の字になって寝転んで、口から無限に出てくる溜息を少しずつ天井へと押し上げるだけの謎の装置。なんだこの繋がらない文章は。何が途切れてしまった?途切れてしまった当人には何も分からないのです。

 

出勤認証の機械が人差し指の静脈をピピッと読み取るやつなんだけど、今朝はその機械に指を突っ込むときに、怪我してる小指を思いっきり機械に激突させて思わず始祖鳥みたいな声を上げてしまった。営業所内の全員が「また窓からタヌキ入った?」「ああなんだ君か」みたいな反応をしていて、どうやら相当に獣じみた悲鳴を上げることが私には出来ると思い知らされた。怪我してる部分をかばうのが下手で、いつも同じ箇所を執拗に連続で負傷する。なんかこれは外傷だけじゃなく言動だとか関係性でも似たようなことを繰り返している気がする。同じ失敗を何度も何度も。学習能力が無いのは了解済みだけど実際にそれを目の当たりにすると「そんなこと言ったって私も知性のある生物ですからね?学習能力くらいあるでしょう」と思いたくなるんだけど本当に無い。

 

 

小説。小説を書くときに、何から書き始めるのが自分にとって書きやすいのか、を真剣に考えている。ずっと前から考えてはいるけれど、実践的でないために大半はおざなりだ。

 

・タイトル

題名を決めて、題名に沿う形で中身を作っていくパターン。これは結構いける。手癖というか、いっさいの大まかな流れも無しで、書きたいように紡いでいって、自然と進むところまで進んで終わり。整合性は書きながらワイヤーを通して引っ張るみたいに矯正して、後から手直す部分も少ない。楽に書ける。その代わり文量が少なくなって、どうしても2000字~~6000字くらいで挫折ないし完結する。タイトルから書き始めた場合は絶対にショートショートか短編だ。この方法が中編と長編に使えたらいいのに。

 

・ストーリーライン

大まかな流れが先に浮かんでいて、というか書き出しからオチまで骨組みが頭の中にあって、具体的にこういう話にしてこういう演出にするんだ、というものにそって文章を書き始めるパターン。だいたい頭の中にある理想像に自分の文章が追いつかないので嫌になって辞める。書くものが決まっているのに、自分で納得のいく文章にならない。なんか表現が雰囲気にそぐわないとか、かっこよさが足りないとか、書いてて面白くないとか、おそらくストーリーラインよりも文章そのものを書くこと自体が好きで、話を書きたいわけじゃない、というのは確実にある。文量としても伸びない。でも、どうしても書く内容が固まってしまって、それを書こうとする時はこの書き方になる。そして絶望的に難産だ。

 

・一文

書き出し、冒頭の一文と、最後の一行だけが決まって、その他は一切何も手がかりが無い状態でのスタート。正直言ってこれが一番楽しい。変な感触を与える冒頭でフックにして、最後の一行に変な読後感を発生させるための重みを持たせる。変な感触、変な読後感、と言ってはいるけれど、便宜的に言っているだけで実際に読んでもらったら変ではないと思う。「何か変わった始まり方だな?」と好奇心を刺激できて、読み終わったあとにしっかり余韻があれば良いな、と思いながら書くし、書いているときにそれを狙って四苦八苦している時に、最初と最後の一行の間にそびえ立っていた大きくて果てしないように思えた欠落が、とんでもない方向から飛んできたピースで埋まっていく様子には、半ば感動するような気持ちが芽生える。だって何も考えてなかったところに筋道だった中身が出来上がるんだぜ?やばい。どこかの誰かがリモコンで私を操作しているに違いない。

 

そんな具合のパターンを切り替えていたのだけれど、今は調子が悪くて何も書けないような状態です。

 

経験が浅いなりの持論なのだけど、文章の冒頭、書き出しを面白くするのに、短い文中に「不安の発生」と「その解消」が盛り込まれているのは良いんじゃないか、と思う。

それは本文の内容そのものとして、でもいいし、この文体は自分に合うのかどうなのか、この文章は面白いのか、という部分でもいい。

わかりやすい、感じやすい形で不安を創出して、そこまで読み進めないうちにすぐさま不安を解消する。話の流れで例えるなら、不可解な状況が描写されその後に簡潔に解消される、危機的状況から解放される。文体としてなら、読みづらいなと思った後にそうでもないなと思わせる。こっちは読者をある程度想定して、その人の読み慣れ親しんだ文体と、そうでない文体とをスイッチして織り交ぜる必要がある。文章としての面白さ、の場合、これは面白く無いんじゃないか?と思わせる描写が先にあって、そのあとで、その描写の悪印象を上書きしうる、尚且つ悪印象の後だからこそ悪印象をも肯定しうる包括的な描写を構えておくことで、普通にすんなり読み始めるよりも「なんか気になるな、読み進めてみようかな」と思ってもらえるぐらいの魅力は宿ると思う。あくまで冒頭での瞬間的な魅力なので、その後も乱用するようなものではないけど。

 

結局のところ、文章を読んでもらうこと、少しでも目を通した人が全文を通して読み終えてくれること、一回でも私の文章を読んだ人が、私の他の文章をも読んでみようかなと思ってくれるように取り計らうこと、に腐心してはいるけれど、そんな具体的な方法論も技術も培えていなくて、漠然と「面白い」ものを目指すしか無いんですが、漠然と目指す中にも、ある程度はひとりよがりにならないように指針が必要だから、ということであれこれ考えたり色々と試したり諦めてもういいや適当に書こうとか、主に混乱の中で書いています。だめだ。まず落ち着いて自分が何をしているか把握しよう。

 

自分は何をしているんだろう……?わからない……生まれてからこの方そんなこと考えたこともなかった……