お腹からっぽのほうが そば詰め込める

 飢える経験に飢える、というのを意識する機会があって、最近たまに考えている。

飢え、不足が経験として蓄積されるのは、それが解決されるべき問題として自分の前にあり、速やかに解決されず、なんらかの障害として停滞していた時期を通過して、やっと「あれは飢えだったな」となるものだと思う。

解決されなかった飢えはどうなる?問題にしなかった飢えは?恒常的な、もはや生活の一部になってしまった飢えは、かわいい欠落で、飢えですらなくなっていやしないか。当人ないし周囲から放置された飢えはそこかしこに転がっている。

 飢え。不可視のマジョリティ。人はみな飢えている。飢えはみな人である。

問題にされていない飢えをわざわざ「お前は飢えている」「これは飢えだ」と指摘するのは御節介以外の何者でもなくて、そしてそれは不可視でなければならない、潜んでいたいマジョリティへの攻撃だ。だからこそある程度の攻撃は必要で、いや、もっと極端にいえば、自尊心や暗黙の了解を根こそぎに焼きつくしていくような、そんな下世話な攻撃は時に絶対的な正義として振るわれるし、これまで何度も振るわれることで確実に、一定の成果を出している。

それは人々の幸福の中に不幸を見出し、それを認識させ、教化し、新しい豊かさを示す、価値観による煽動だ。

金は鋳造された自由である。価値観は自由の剥奪である。

統御できない自由を排除し、そこにより扱いやすい、共有できる自由を流し続ける作業が、文明の発展だった。

 

 飢えを暴き出すこと。飢える経験の強要。透明な貧しさに色をつけること。

昨今はそういった御節介が非常にやりづらくなったのではないか、と思う。大抵のことをやりつくしたのもあるだろう。価値観が多様化した、それもあるだろう。画一的なようにも思えるが。

 

 不可視のマジョリティが本当にいなくなってしまった。

時代、世界、国家、社会、連帯感、といった、「端から端までは見通せないからこそ、在ることができるもの」が、技術の発展によってかグローバリズムの台頭によってか、覆いや霧が晴らされて、可視化されるようになった。勿論それは表層的なものだし、一人ひとりが全てを把握して理解しているわけでもない。それでも共同体は死んだ。共同幻想は無くなった。見えた気になるだけで、見てしまったのと同じくらいに、人は「見えない」とは思えなくなる。貧しさは確かにそこにあった。想像よりもっとひどい姿で。

 

 飢えの否定と肯定が始まった。

本当は君は飢えてないよ。それは飢えじゃないよ。そういうものだから気にしなくていいよ。飢えていてもなんとかなるよ。

何かを獲得するでも、求めるでもなく、ひたすらに飢えを埋め合わせる、そんな、現状で満足する、ないし「現状よりひどくなってもそれに甘んじる」ことを良しとするような、そんなものばかりが溢れかえっている。

透明だった飢えに色がついた。また透明に戻そうとしている。しかし戻ることがない。透明であることを前提にした時とは違う。本当に飢えがある。仕方なく見ないふりをする。何一つ生産的ではなくて、ただ単純に満たされる。飢えてない飢えてない。向上心が無いと言われても、無くても困らないと言い返す。

 

 手の届かないどうしようもないことへの憧れは、手に届くどうしようもないことに手をつけずに済むための自制心だった。

青年が短絡的に改宗し祖国を離れ銃を持つ。

間に合わせの幸福。

もう誰も飢え方を知らない。