よく間違い電話が来る
どういう加減でそうなるのか、私にはさっぱり分からないが、私の元へは頻繁に間違い電話がやってくる。頻繁に来ると段々こちらも身構えてしまうもので、見慣れない番号や非通知でかかってくると最初から「また間違い電話なんじゃないか?」と頭をよぎってしまう。
そのうち幾つか印象に残っているエピソードを書き起こしてみる。
ケース1
電話が鳴る。開口一番に相手が叫ぶ。
「五郎丸さん今どこにいるんですか!?」
「えっ?」
あまりの剣幕と名前のインパクトに反応が遅れる。
「あの、違います、五郎丸さんじゃないです……」
「えっ!?じゃあ五郎丸さんはどこに居るんですか!?」
知らないよ!なんだその面白い返しは!
「あのう……番号を間違えているんだと思うんですけど…」
「あっ、失礼しました……」
ケース2
電話が鳴る。
「はい、はしごです」
「◯△不動産の池谷です、藤枝さんですよね?」
「違います、藤枝さんではないです」
「え、番号は合ってますけど」
「いや、間違ってますよ」
「あー、失礼しました」
突然一方的に切られる。ほどなくしてまた同じ番号からかかってくる。
「◯△不動産の池谷です、藤枝さんにご案内していた物件の〜」
「あの、藤枝さんではないです、先程間違い電話でこちらに掛けられてますよね?この番号は藤枝さんではないのでよく確認してください」
「番号合ってるんですけどね」
「間違ってますよ」
「んー、失礼しました」
また一方的に切られる。直後にまた同じ番号から着信。
「◯△不動産の池谷です、藤枝さんいらっしゃいますか」
もう返事をせずに切る。その後また同じ番号から複数回着信。もう嫌になり着信拒否する。
その暫く後に違う番号から着信。
「◯△不動産の池谷です、藤枝さんにご案内の件で」
こいつ信じらんねえ!違う番号でまた掛けてきやがった!!怖い!!すぐさま切って着信拒否に設定する。その暫く後にまた末尾が違う似たような番号から着信が来る。応答せずに着信拒否に放り込む。ようやく静かになる。
ケース3
電話が鳴る。
「〜〜〜〜〜〜?」(いきなり早口の英語で話しかけられる)
「あ……え……?」
全然聞き取れずに全く返事ができない。まごまごしている間に相手のほうから切られる。発信元番号で検索するとロンドンからの電話だった。なんで?
ケース4
電話が鳴る。
「壊れたんですけど」
何が?
「壊れたんですけど!!」
「あの、なんのことか分かりませんし、おそらく間違い電話ですよ」
「それが客に対する態度か!?」
「間違い電話ですよ!」
「なめてんじゃねえぞ!!!」
「番号をよくお確かめください!」
「……あっ、すみません……番号間違えてました……」
「気をつけてください」
余談。間違い電話とは別に人違いコメントみたいなものが、一昨日このブログに来た。内容は
「◯◯さんのブログだと思って読みに来たら別人のしょうもない自分語りだった。残念」
知らないよ!人違いしといてコメント残してく神経も謎だよ!というか私のブログなんだから私のこと書いてるに決まってんだろ!人の日記を覗き込んどいて「◯◯さんの日記じゃなかった!お前は誰だ!俺はお前のことなんかどうでもいい!」といきなり言われた感じでちょっと面白かったからズルい。でもムカつくのでそのコメントは削除した。
自身の鬱病の治療について
できるだけ正確に簡潔に記すことを誓います。
私の状態:極めて重度の抑うつ状態にある。
受けている治療:投薬とカウンセリング。
生活:無職であり昼夜の逆転した不規則な生活。
病名・診断:鬱病の診断は出ていない。アスペルガー、ADHD、パーソナリティ障害等の検査も受け、どれにも該当せず。
自身の認知:極めて悲観的に偏っている。また、普通の人が送る普通の生活というものへの強い憧れと執着があり、それと自分の現状との落差によって苦しんでいる。
自身の現状への理解を助け、また、これを読む人への伝達の一助として以下を援用する。
社会心理学者ヒギンズによる「セルフ・ディスクレパンシー理論」というものがある。
これは、人の動機付けや、それによって発生する感情の違い、有体にいえば個人個人の持つ偏りを、目標と現実の差異によって説明する理論である。
このモデルでは自己像を以下の三つに分類する。
現実自己……現実の自分自身の状態。これは必ずしも事実を意味するわけでなく、本人が「自分の状態」として認識しているものが現実自己となる。つまり認知の歪みによって、間違った思い込みをしている場合、それが現実自己になる。現実モデル。
理想自己……本人が望む自分のかたち、もっと良くありたいという願望や理想を理想自己と呼ぶ。理想モデル。
当為自己……本人がこうあるべきだと感じる義務感や責任感により描かれる自己像のかたち。社会的規範等に則った正しい在り方、を求めた自己像。当為モデル。
これら三つの自己像の差異が大きければ大きいほどストレスは強くなる傾向にある。
私の場合の現実自己は、無職で重度の抑うつ状態にあり、大学への進学を希望するも学習ができず、就労も叶わず、創作活動もできない状態。
私の理想自己は、大学進学のための学習をしながら、就労し、創作活動も行うこと。または、それらのうちどれか一つでも叶うこと。
私の当為自己は、大学進学か就労のどちらかを選び邁進すべきである、というかたち。
私の現実自己の状態を私ができるだけ平易に適切に認識すると、今の状態では何を行うのもよくないほど鬱が悪化しており、治療と休養が必要である。
私の理想自己は、私の現実自己の状態を認識できておらず、無理にすべての欲求を叶えさせようとしているため破綻している。
私の当為自己は、私の現実自己の状態を認識できておらず、また、その有り様を否定している。実際にはやるべきではないことを、やるべきこととして強要し私の現実自己との間に大きな隔たりを設けている。当為自己は鬱病の治療に対しても懐疑的であり、服薬とカウンセリングへの意義を見失っている。
これらの差異をセルフ・ディスクレパンシー(自己矛盾)という。この自己矛盾の大きさが、主に当為自己の苛烈な自己嫌悪による暴走、無理に社会へと適合させようとすることによって拡大を続けており、ストレスが増大している。
理想自己と現実自己の差異は、失望、失意、不満、落胆、悲しみを発生させる。
当為自己と現実自己の差異は、社会的な何らかの制裁を予期させ、不安、焦燥、恐怖、緊張、動揺を発生させる。当為自己そのものが現実自己への怒りを持つ。
これを受けて私が考える私の治療のプランは以下になる。
1、診察とカウンセリング、服薬を続けること。
2、理想自己を縮小し、実現可能な範囲の小さな目標へと設定しなおすこと。
3、当為自己を縮小し、べき論から現実自己を解放するために、こうあるべきだと思う理想や自己像を、現実から乖離させるような思考を避けること。また、そういった乖離の働きを助長するような情報を知覚しないようにすること。
4、十分な睡眠と食事と適度な運動をストレスのなく無理のない範囲で実行すること。
5、生活は昼夜逆転しており不規則だが、無理に規則正しい生活を自分に強要しないこと。
6、常にセルフ・ディスクレパンシー理論における自己像の3つのモデルを想起し、自分の内外で発生するストレスのうち、どの差異を何が助長しているか、またどの自己像が現在どのような状態にあるか書き留めることで自身の現状を記録し認識し続けること。それによる当為自己の矯正を図ること。
以上が私の現状になります。
2017/11/10の日記
今日はポーズマニアックスの90秒ドローイングを20回やった。難しかった
からあげ6個食べた。
友達がtoldというバンドをおすすめしてくれた。
ギターかっちりしててメロディ抑え目で良い~好き~。好きになった。
友達が「お前LOSTAGE好きだしtoldも好きそうじゃない?」という流れで教えてくれたので、さっそくローチケとかで公演情報を探す。なんか対バンしてそうな気がした。そうしたら昨日ちょうど半蔵門でのLOSTAGEのライブにtoldの鈴木さんが参加していたので「ニアミスー!!」ってなった。今後の動向を追っていく。
LOSTAGEとtoldとage factoryの大阪での公演情報?の残滓みたいなものが検索に引っかかったのだけど、いつライブやったのか、それとも今後やるのかどうかが分からなかった。好きなバンドが3つも一堂に会するライブイベントが存在する可能性が掲示されて元気出た。仮にもう開催されて終わった過去のライブだとしても想像するだけで嬉しい。
漫画「総合タワーリシチ完全版」を読みました
……良かった……。
上巻の描き下ろしが下巻の最終話以降の後日談になっているので、これから初めて総合タワーリシチを読む人はそれだけ気を付けてください。上巻の本編を読む→下巻の本編を最後まで読む→上巻と下巻の描き下ろしを読む、の流れを推奨します。
時系列的に考えると、下巻の巻末に収録するべきだった内容が、上巻の巻末に収録されてしまっているのは、おそらくページ数の都合等で仕方ないんだろうなとは思います。知らずに上巻の描き下ろし読んだら混乱すると思う。私もインターネットを通じてアドバイスがもらえたので下巻まで読んでから描き下ろしに進みました。ありがとうインターネット。ありがとう人類。
明るくて楽しい漫画でした。この作品は百合漫画なんですけど、そうであることに目をつむり、百合漫画であることを知らないつもりで読んだら「え……うそ?そんな空気に!?うわーーーっっ!!」とかなり純粋にトキメキを覚えて読めました。普通の学園コメディ漫画っぽさが下地にあって、ドタバタしてて楽しい空気の延長線上にいつか百合が来ることが予期できたから、あえて、百合漫画だと知らない風に装って入るのがすごく良かった。そういう読み方がおすすめです。私は百合だと知らずに百合作品に触れて不意打ちを食らいたいんだ……。
最近聴いてる音楽の話 (Safeplanet、SCOOBIE DO、Feodor Dosumov)
ブログゆるめに短く書くのが更新癖を付けるのに良いなって思った。あんまり気合入れて長文書いたり、内容が自身の心をえぐるやつだと何日も書けないので。
というわけで最近聴いて気に入った音楽の話をします。
最初はタイのインディーロックバンド、セーフプラネットの話。
聴き始めたきっかけは、元々私が好きなLOSTAGEというバンドがタイのライブツアーでSafeplanetと対バンしたことで、LOSTAGEのボーカルの人が自身のブログにて彼らを紹介していたこと。一聴して気に入った。
粒立ちがよくて聞き取りやすく骨太なドラム、流麗なギター、が良いのと、私がタイ語をわからないおかげで不思議な響きとしてボーカルを聴きとっていて、メロディとリズム自体に宿っている民族的なニュアンスに不思議な響きの言葉が乗っかることでマジでありえないぐらい爽やかさを感じる。民族的な音楽っぽい感じ、もそんなに強いわけじゃなくて、基本は上手でポップなロックサウンドだというのもあって聴き疲れしない。でも個性は強い。タイですごく売れてる、というのも納得。
次はスクービードゥーの新譜の話。
最近発売されたSCOOBIE DOの新アルバム「CLACKLACK」がとても良かった。
私はガングレイヴのEDでしか彼らを知らなくて、でもEDだった茜色が燃えるときという曲は本当に好きでふとした拍子に何度か聴き返すお気に入りの曲だったところ、最近「そういえば好きな曲なのに自分はスクービードゥーの他の曲やアルバムのこと全然知らないな」と思い現在どんな活動をしているのか調べ、この新譜の存在を知り、リードトラック的に公式で公開されていた曲Cold Dancerを聴いた。
もうめちゃくちゃに良かった。踊れる、乗れる、という表現がぴったりハマる。それは楽曲だけではなく歌詞もだった。小気味よさ、かっこよさ、がストレートに音と言葉で突っ込んできた。PVもシンプルでよかった。
閑話休題。よく人と好きな音楽やおすすめの音楽家などの話をするときに、youtubeなりストリーミングサービスなりのURLを貼りあって試聴を促すことがある。その際に自分は、「公式がアップロードした音源だけを貼ろう」と考慮することが多い。アーティストやレコード会社の公式チャンネルや、VEVO等で公式から配信されたものかどうかを確認してから引用する。
なぜかといえば、それは、非公式にアップロードされた音源を周知のために使うのは憚られるというのは勿論あるが、それ以上に「公式のアップロードした音源へのアクセスが妨げられる」ということが大きい。
アーティストにとって、レコード会社にとって、インディーズのレーベルにとって、公式の音源がどこからどのように、いつアクセスされて、合計の再生回数がどのように推移しているか、どこまで増えていくか、という情報は非常に大きな判断材料や売上の予測に繋がる。公式音源のアクセス経路と再生回数は音楽活動を生計にする人にとって大切な情報なのだ。それを損なってしまっていいのか?いや、よくない。そう私は思っている。だから私は好きな音楽の話を人とするときに、相手を公式の音源へと誘導する。
最後はロシアのギタリスト、フョードル・ドスモフ。
彼を知ったきっかけは無いに等しくて、ある時唐突に「ロシアのフュージョン聴きたい」と思って探し始めてすぐにFeodor Dosumovが出てきた。探したら真っ先に出てきたということはその道で今最もホットなんだろうと調べて聴いてみる。気に入る。
あとすごく失礼な話をするんだけど、フュージョンあんまり詳しくないからどれ聴いても同じに聴こえる現象を私は抜け出せていなくて、ウェザーリポートとカシオペアの区別はつくし、そのどちらも好きなんだけど、フュージョンというジャンルの音楽はどれを聴いても、その国らしさ、を聴き分けることができない。フョードル・ドスモフがロシアの人なのに彼の曲にびっくりするくらいロシアの特色みたいなものを感じられなくて、フュージョンってどの国の人が作って演奏しても国境を越えて万国共通ジャンルみたいな近似値を取りやすいのかな……?と思った。フュージョンというジャンルに詳しくなったり、音楽への造詣がしっかりと深まれば違いが分かるようになるんだろうけれど、自分にとっては未だに霧や靄の向こう側にフュージョンがあることを再確認した。ロシアっぽいフュージョン聴こう!と思ってロシアンフュージョンを探して幾つか聴いてみて、どれもロシアっぽくないの、ちょっとした恐怖体験だった。ロシアっぽい音のフュージョンを知っている人、詳しい人、連絡ください。そもそもフュージョンに限らずロシアの音楽に疎いのをどうにかしたい。
氏が兄と共演している演奏も好き。
ハンカチ
よく映画見て泣いちゃうから涙拭き用のハンカチも用意するんだけど
白っぽかったり明るい色のハンカチだと光を反射して目立つから他のお客さんの邪魔かなと思ってできるだけ暗い色のハンカチにしようと思ってて
その話を人にしたら「赤みを帯びた黒だと普通の黒よりも闇の中に溶け込むよ」って教えてもらって
そういえば忍たま乱太郎でそんな話聞いたな
忍者の装束は赤墨色とか赤銅色で柿染の濃いやつみたいな赤っぽい黒って聞いたな
一理あるなって納得して
赤みを帯びた黒のハンカチを映画見るとき用に持っていった
そしたら
想像以上に赤みを帯びた黒色のハンカチが闇の中に溶け込んでて
映画見てる最中にハンカチどこ行ったか分かんなくなった
他のお客さんどころか自分でもハンカチ見えなかった
鑑賞の邪魔にはならなかったと思う
あと人の真似をして箇条書きでブログ書いてみたら楽だった
ブログ再開して二日目にして書くことが全然思いつかない
やっぱり思うんですけど何事もブランクが空きすぎると腰が重くなる。長いことやってなかったことは急に続けられない。
Twitterの話でもします。RTの使い方のこと。
あるツイートを見た人が、自分が不快に感じたり、怒ったりしたあとに、その不快に感じたツイートをRTしてから、リプライやURL引用ではなく独立したツイート形式で、文句や罵倒をする、という使い方をしていることがあって、私そういうRTの使い方すごく苦手なんですよ。もっというと、そういう、自分が好ましく思っていないことを周知したり拡散したりしてから、その話題に関して口汚く罵る人、というのがすごく苦手で、どうしてそんな不毛なことするんだろう?と疑問に思っている。
彼らがそういうRTの使い方をする理由はいくつか考えられる。
ひとつめの理由、自分の感じた苛立ちを人に共有してもらいたい、という共感を求める気持ち。これはよくあることなんだろうと思うのでわかります。わかりますが、品性に欠けるので好きではない。
ふたつめの理由、自分が不快に感じたものに対して苦言を呈することで、自分のスタンスを表明している。また、そのスタンスを表明することで周囲に対して「自分はこういう人間なんだ」と自己演出をしてポーズをとっている。同じように、自分をよく見せるために、知的であることをアピールするために何かを批判する。これもわかります。わかるけどやはり悪手だと思うし、批判するならば、丁寧に上手な言葉の使い方をしてもらいたい。なによりも該当するツイートをRTせずにリプライなりURL引用なりで相手に届く形でやってほしい。相手に察知されると面倒くさそう、会話をしたくない、という怯えや自身への便宜的配慮はあるのに、周囲に不快なものをRTして見せてしまうところに、醜悪な欠落を覚える。
そんな感じでした。単純化すると、私は攻撃的、恫喝的な言葉の使い方をする人が苦手なんだと思う。私自身も言葉が悪くなるときがあって、そういう汚い言葉の使い方をしたくないと折に触れて思うから、反面教師としては彼らのような「自分が嫌だと思ったものを高く掲げてみんなに見せびらかしてから文句を言う」人たちを視界に入れることで、ああ、こういう言動や話題の発生の仕方は嫌だな、と戒めにしていけばいいのかな、と。
この話題のオチは、自分自身が何か嫌だなと感じたことを話題にしている、という、ミイラ取りがミイラになっているところです。言及しなかったものが生還者!