映画「ゼイリブ」感想と考察 良い子のみんなは宇宙人見つけてもいきなり撃っちゃダメだよ

 映画「ゼイリブ」製作30周年記念HDリマスター版を観た。

 

この映画は作品内に描かれていることそのものではなくて、これを観た人がどう考えるか、という作品の外側にメッセージがあると私は思っている。

 

ゼイリブ」がどういう映画か、を簡単にまとめると、

社会の中に宇宙人が潜んでいて、彼らがアメリカを支配している。それを知った主人公は彼らの支配を崩そうと試みる。……このまとめ方ちょっと語弊がある気はする。

 

 

 映画の冒頭。不況の中、仕事を求めて街へやってきた流れ者のネイダ。貧しい暮らしをしながらも、ネイダはアメリカという国の自由や公正さを信じている。ルールを守って真面目に働いていれば、いつか報われる、アメリカはそういう国だと信頼している。しかし、ある日偶然手に入れた奇妙なサングラス越しの視界を経て、ネイダの世界は一変する。街のいたるところに仕掛けられたサブリミナル。人間に交じって生活する宇宙人たち。既にアメリカは毒されていたのだ……信じていたはずのアメリカは……

 

……と、隠された真実に気付いた、というところまでは良いんですが、この後の主人公ネイダの動きがやばい。宇宙人の警官を殴り倒して射殺、銃を奪ったあと銀行へ行き、目に入った宇宙人を次々と撃っていく。不思議なサングラスを掛けてみたら、人間に化けた宇宙人を見つけちゃった!となった後、クッションなしに彼らを殺し始める。作劇上のテンポを良くするため、とかで言い訳が効かないレベルで危ない。

その後、建設現場での仕事仲間のフランクに"このサングラスを掛けてくれ!真実を知るんだ!"と詰め寄るも拒絶された挙句、延々と殴り合いを繰り広げ、無理やりフランクにサングラスを掛けさせるネイダ。この殴り合いのシーンがマジでどうしようもなく長い。長すぎる。長すぎて思わず笑ってしまうか、ウンザリする。ここで観客から主人公への感情移入や共感が薄れるというか、ちょっと引いた視点で観れるようになるのも肝だと思う。

アメリカが宇宙人によって支配されていることを知ったネイダとフランクは、お互いの身の上話を始める。話はネイダの父親のことに及ぶ。ネイダの父親が彼を虐待していた話が出た途端、フランクが"それもヤツら(宇宙人)のせいだ"と息巻く。"宇宙人は俺たち人間がお互いに傷つけ合い苦しむのを見て笑ってやがるんだ。ゆるせねえ"

……え?いや……それは……ちょっと関係ないんじゃないかな……まあ……その……貧富の差の拡大とか……搾取構造とか……行き過ぎた消費とか……資本主義やグローバリズムの歪みが巡り巡って一家庭に不和をもたらすのはあるかもしれないけど……全部を宇宙人のせいにするのは……

 

そしてなんやかんやあって主人公たちは、サングラスを作ったレジスタンスたちのアジトへたどり着く。レジスタンスたちによると、どこからか発信されている電波によって、宇宙人は人間を洗脳し支配している。その電波を止めれば、サングラスなしでも宇宙人の正体を見破り、街中にあふれるサブリミナルを看破できるらしい。しかしアジトは警官隊の襲撃によって壊滅、そこから逃げ延びた主人公たちは宇宙人の秘密基地へ潜入、どこからか発信されている電波を止めるため戦う……。

 

という、SFスリラー映画なんですが、正直スリラー要素に関していうと、宇宙人なんかより主人公ネイダのほうが怖い。劇中で一切なにひとつ躊躇しないし、物を考えるとか反省するとか推察する様子がゼロ。見た!知った!殺す!で動いていく。警官を倒したあと、流れるような動きでパトカーのダッシュボードからショットガンを失敬するところなんか「きみ……初犯じゃないよね?」と変な笑いが出る。変な笑いどころは全編通してあるからそれがこの映画の魅力ではある。

 

 本題に入る。「ゼイリブ」を観て、主人公よろしく"世界を牛耳ってるヤツらがいる、ゆるせない、俺たちの生活が苦しいのはヤツらのせいだ"という受け取り方をする人たちが一定数居る。そして最近は、ヘイトクライムや人種差別の場で、この作品の名前を出して「ゼイリブみたいな感じだよ」と自分が嫌う対象を排斥する大義名分のように語る人がいる。主にネオナチなんかがそうだ。それに対してゼイリブの監督ジョン・カーペンターが苦言を呈していた(↓)

30年前のカルト的SF映画『ゼイリブ』がいま、なぜかネットで再び盛り上がる“不快”な事情|WIRED.jp

ことを受けて、私なりに、監督も別に意図していない範囲まで、現代、2018年の私としての作品の読み込みをしてみようと思った。

 

 特権階級による支配、資本主義の暴走、を組み込んで撮られた映画であり、またゼイリブは侵略者による支配と、それへの拒絶を組み込んだ映画である。遠い星からやってきた宇宙人によって支配されるアメリカ。その支配を受け容れる人間もいれば、拒絶し、徹底抗戦する人間もいる。これが何の縮図かと言えば、それはまさしく植民地時代のアメリカだ。ヨーロッパからの開拓者たちを前に、戸惑いながらも物品の交換などで交流するネイティブアメリカンたち、また、故郷を守るため戦いを挑み、征服されていくネイティブアメリカンたち。入植者たちの圧倒的な軍事力や工業力を前に、次々とアメリカは塗り替えられ、ネイティブアメリカンたちの世界、それまで暮らしてきたアメリカは切り取られ続けていった。

 翻って、ゼイリブの世界。かつて自分たちが侵略者だった自覚など、冷戦末期のアメリカ国民にはない。自分たちの国が宇宙人によって脅かされている――という恐怖は、開拓時代にネイティブアメリカンが彼ら入植者に対して抱いた恐怖と重なる。新たな入植者である宇宙人とその支配を、かつて入植者であったアメリカ人はどこまで否定し、拒めるのか。

 

 資本主義とグローバリズムによる、世界各地のライフスタイルの均質化の是非と不気味さもまた、ゼイリブで描かれるテーマのひとつである。大量生産と大量消費、流行に従って皆が同じものを買いあさる時代の裏に、実は人々を操る隠されたメッセージがあったなら――ゼイリブの劇中では、それは看板や商品に仕掛けられた、サブリミナルとして存在する。現実では、それは耳障りの良いキャッチコピーであり、CMであり、与えられた価値観の雛形になるだろう。自分の意思で行動しているつもりが、巧妙に誘導されていることに気付けないことへの危機感を視覚化した結果が、ゼイリブのサブリミナルになる。(余談だが、現代の行動ターゲティング広告において、ユーザーの閲覧履歴を元に興味を持ちそうな広告を表示する、というのが基本の手法だが、そうして表示される広告の中に、ユーザーの閲覧履歴とは無関係に特定の広告を表示し続けていると、そのユーザーはそちらの広告へと興味や関心を持つように誘導されていく、というデータがある。)

 ライフスタイルの均質化、個人が何を欲するかを社会に植え付けられている、というテーマは、映画「ファイト・クラブ」にも見られる。みんなが欲しがるものを自分も買い、現代社会に適さない闘争心や暴力は自ら抑圧し、おとなしく右に倣えで生きていく中で、そうではない生き方を望んだなら――。

 グローバリズムの暴走やライフスタイルの均質化のプレッシャーは、断片的にアニメ「フリクリ」にも描かれている。宇宙規模で展開する大企業。その巨大プラントが街に出来て、そのプラントを取り囲むように、関連企業や社宅、下請けの工場が立ち並ぶ。そして世界中にプラントが建ち、どの街も同じように、プラントを中心とした暮らしになっていく。そうして宇宙中の星はかたっぱしから平均化され、平たくされていく。もはや目的や意味などなく――。

 

ゼイリブでは、主人公は支配からの解放を求めてひたすら突き進む。ファイト・クラブでは、主人公はそこにブレーキをかける。フリクリでは、解放されることなく日常が続く。

 

ゼイリブの最後では、主人公によって秘密のベールを剥がされた世界が、その後どうなるのか、までは描かれない。多くの混乱が予期されるに留まり、主人公の行動がはたしてどう作用したのか、その是非などは分からない。

 

特権階級による支配構造、社会格差に対して戦いを挑む主人公が、ゼイリブでは手放しに肯定されてはいない。かといって、否定されてもいない。

社会に対して変革を求めるとき、暴力に訴えることは中々容認されることではないが、完全に否定されるものでもない。抵抗権や革命権、アメリカ独立宣言のように、権力が間違っているときに、市民はこれを打ち倒す権利を持つ、という風穴は、どこかに用意されている。もし用意されていなくても、市民は革命を起こすべくして起こすだろう。それは本当に起こしてよいのだろうか?その後の社会を、どこまで見据えているのだろうか?

しかし、戦うべきでない、立ち上がるべきではない、とは言い切ることができない。支配を甘んじて受け入れるのも、盲目的に従うのも、それが生存を脅かさない範囲においての話だ。

 

アラブの春以降の、今日の中東の混乱と、政情不安、地獄のような内戦を見て、革命が起きてよかった、と思うことができない。しかし、革命は起こすべきでなかった、とも思えない。なんらかの変化は必要だった。あまりにも変化は大きすぎた。

 

 

 冒頭に述べた、作品の外側にメッセージがある、という件に立ち返る。これはつまり、作中ではそれを明示せず、どう判断するべきかの結論が出ない状態、観客が主人公の行動の是非を判断しかねる状態に持っていくまでが、映画「ゼイリブ」の構造なのだ。敵を見つけた途端に喜び勇んで排除しにかかる主人公には眉を顰めるし、かといって戦わずに恭順すべきだとも言えず、結論が出せない。こうするべきだった、と主張をどちらかに寄せてしまうと、途端にこの映画は重力を失って、ただの変なカルト映画になってしまう。殴り合いのシーンとかめちゃくちゃ長いし。いやほんと……長い……

 

 ゼイリブの感想を書き始めて、最初は単に「殴り合いのシーン長すぎて笑った」とだけ書いて終わりにする予定だったのに、なぜか色々書いて話題が散らかってしまったので殴り合いのシーンの話に戻ります。ゼイリブの、ネイダとフランクの殴り合い、動機はサングラスを掛けさせるためだったのに、延々と殴り合ってるうちに完全に目的を見失ってる感じになるんですよね。戦いが長引いていくと、なんの為の戦いだったか分からなくなるみたいな……戦争もそうだよね……みたいな……いや……こんな……こじつけ方するか普通?あまりにも長くてクドい喧嘩シーンを前に、疑似的な厭戦気分が発生することで、クールダウンが図れて観客が主人公のことを「こいつ危なくない?」と思うキッカケになるのは小技が効いてて上手いと思う。絶対そんなんじゃないわ。主人公ネイダの役者はプロレスラーのロディ・パイパーなんですけど、絶対ロディ・パイパーが戦ってるところ撮りたいから撮ったでしょ長い喧嘩シーン。なんなんだゼイリブ

 

 

 結論が出ないなりに。散々ネイダのことを危ないやつ呼ばわりしてきたけれど、彼は決して特殊なメンタルの持ち主などではない。むしろ世の中の大半の人は、私も含めて、ネイダと同じくらい、単純で、見境が無くて、自分の考えに疑念を持たずに行動してしまう。簡単に結論を出してしまう。ためらいは無いより有ったほうがいい。

潜在的トランスジェンダー、文化盗用、環境と自由意志の話

 性同一性は性的指向を決定しない。また、性的指向から性同一性を推測することはできない。

それがどういうことなのか、幾つかのパターンを提示する。

例1、性自認(性同一性)が女性であり、身体の性が女性で、性的指向が女性である人の場合。この人は同性愛者であるという自覚を持つだろうし、周囲からもそう認識されるだろう。

例2、性自認が女性であり、身体の性が女性で、性的指向が男性である人の場合。この人は異性愛者として自覚し、認識される。

例3、性自認が男性であり、身体の性が女性で、性的指向が女性である人の場合。この人の自覚はどうなるのだろう?自分は男性であり、性的指向は女性だ、として異性愛者として自覚する可能性。それと同様に、自分の身体は女性であり、性的指向は女性であることから、同性愛者として自覚する可能性もある。周囲からの認識はどうだろう?服装、手術や注射によって外見がどちらの性に見えるか、を元にして判断される場合と、経緯を知って認識を改める場合がある。そのどちらでも同性愛者/異性愛者として認識されうる。

例4、性自認が男性であり、身体の性が女性で、性的指向が男性である人の場合。この人の自覚はどうなるのか。自分は男性で、性的指向は男性だから同性愛者だと思うことも、身体は女性で性的指向は男性だから異性愛者だと思うこともあるはずだ。周囲からの認識も、例3のようにやはり、外見上の性別から判断され、また事情や経緯を知ってから認識が変わりうるパターンだろう。

 

例4について、もう一度書こう。身体は女性で、心は男性だ。性的指向は男性である。この人が女性的外見をしていた場合、異性愛者として扱われることは多いだろう。また、身体は男性で、心は女性であり、性的指向は女性である人が男性的外見だった場合も、同じように周囲からは異性愛者として認識され扱われる。

 

ここまでに、本人の自覚と、周囲からの認識の話を並列したのは、それが一致しなかった場合、本人の主張が周囲に受け容れられないケースの問題について書くためである。その話に移ろう。

 

異性愛、同性愛は、社会では一般的に身体の性に基づいて判断されてきた。自分の身体の性と、相手の身体の性が異なれば異性愛、同じならば同性愛として。これを、身体の性ではなく、心の性、性同一性(性自認)に基づいて判断することに対して、社会の認知度は著しく低い。

 

例4のように、性自認が生まれもった身体の性と違う・性的指向性自認の性と一致する人が、自分は同性愛者である、性同一性が身体と異なると主張したとき、これらの問題について疎い人(性自認性的指向はセットではないと知らない人)は、概ね「あなたは普通の異性愛者である」と反応する。身体的に異性である人を愛することは、普通の異性愛であり、あなたは性自認を取り違えているだけだと指摘する。(この傾向は、思春期の子供のカミングアウトに対して親が拒絶を示す際などに強い。)

 

例4の人が、自分は同性愛者であり、トランスジェンダーである、と主張したとき、例3の人から、否定され、場合によっては、すさまじい怒りと嫌悪を向けられることがある。今回の記事の主題はここである。

 

身体の性と性自認が違い、身体の性と性的指向が同性である人のうち、「異性愛か同性愛かを身体の性によって判断する人たち」にとって、トランスジェンダーであり同性愛者である人とは、まぎれもなく自分たちのことであり、それ以外の他者では決してない。彼らにとって異性愛者である人たちが、トランスジェンダーであり同性愛者であると主張することは、彼らに大きな混乱を招くのだ。

彼らはこう反応する。「あなたはトランスジェンダーではないし、同性愛者でもない」。そして、こう続けられる。「異性愛者である人によって、私たちトランスジェンダーであり同性愛者である者の尊厳はいたずらにアクセサリー化されている。文化が盗用されている」

 

近年、同性愛とトランスジェンダーを題材にした映画が多く制作されている。しかし、その殆どにおいて、同性愛者やトランスジェンダーを演じるのは、同性愛者やトランスジェンダーではなく、異性愛者の俳優たちである。これに対し、同性愛者やトランスジェンダーから「当事者ではない人たちによって文化が盗用されている」との声が挙がっている。

 

文化の盗用(Cultural appropriation)とは何か?について説明を挟む。

 

この言葉には幾つかの側面がある。

1、文化に対して理解のないまま表面的に真似をする

2、マジョリティがマイノリティの文化を借用する

3、敬意の欠けた模倣

4、文化の所有者ではない者が、その文化を用いることへの批判

 

歴史的に、世界の数多くの植民地では同化政策によって現地の文化は追いやられ、消滅した。これに対する反動として、原住民の文化を保護しようとする運動が強まり、マイノリティの文化をマイノリティの財産として意識するようになる。その結果として、エスノセントリズム(自民族の文化を基準とし大切にする一方、他民族の文化を否定し、排他する主義。同化政策のような文化侵略に対抗するため生まれたものだが、同化政策と同じことをマイノリティ側から行う形である)が広がっていった。

文化盗用、という考え方は常にエスノセントリズム的である。文化は固定的なものであり所有者である集団が存在する、という考え方の元、その文化の帰属者でない者がその文化を行うことを、攻撃の意図をもって否定するとき、この「文化の盗用」という言葉は使われる。

黒人音楽を生み出したのは黒人だが、黒人音楽を商業的に成功させたのは白人のミュージシャンたちだった。文化の創り手でありながら、差別によって音楽業界から締め出され、白人に利権を簒奪されてきた黒人にとって、黒人音楽を白人が演奏する姿は苦々しいものに映る。これは音楽に限らず、ドレッドヘアーやアフロなどの髪型を黒人以外の人種がすることも否定される。

しかし、黒人音楽や、ドレッドヘアーなどは、黒人だけの固有の財産なのだろうか?他民族の文化を取り入れること、行うことは否定されるべきなのだろうか?これは黒人の文化に限らない。ネイティブ・アメリカンの民族衣装を着た白人、和服を着た白人に対しても文化盗用が叫ばれる。文化は違う民族の間で交流され、変化してきたはずだ。なぜ文化に「所有者」が定められてしまうのだろう?

 

人は生まれる場所を選べない。自分の両親の人種によって自分の生まれもった人種が決まり、生まれついての性別が身体の性として決まる。自らの意志によって何かを選ぶ前に、環境は決定されていて、その中で育ち、人格は形成されていく。もしもこの世界が決定論的に、「先に決まっていたことによって後のことも全て決まっている」のならば、そこに自由意志はない。人は与えられた環境、与えられた出自、与えられた性、与えられた身体によって決められた道を、決められたように進んでいくことになる。

 

 しかしそうではないはずだ。我々は生まれた時からお互いに影響を受けながら生きている。成長する過程で幾つもの変化を経験し、自分はどうしたいのか、どうするのかを選べるようになっていく。生まれもった性別に規定されず、成長して気付いた性自認にも規定されず、もしかすると自らの性的指向にさえ規定されず、人を好きになる。

同性愛は同性愛者だけの固有の文化ではないし、トランスジェンダーの有り様に定型はない。黒人音楽が黒人だけのものでないように、白人音楽も、雅楽も、特定の所有者しか使えないものではない。異性愛もそうだ。「文化の盗用」はいつも、パブリックである、と見做されたものに対しては叫ばれない。同性愛者であることを公言している俳優が、映画の中で異性愛者を演じたとき、「異性愛者でない者が異性愛という文化を盗用している」とは言われない。異性愛はパブリックであり普通のものであり誰にでも解放されているので盗用には当たらず、白人の文化はマジョリティのものなので黒人や黄色人種が用いても盗用に当たらない、と無意識に判断している傲慢さが、文化の盗用を叫ぶ。黒人が差別に苦しみ「白人に生まれたかった」と口にしたとき、それは批判されない。白人が黒人に憧れ「黒人に生まれたかった」と口にしたとき、往々にしてそれは批判されてしまう。だが、選べなかった環境によって決定されたものに対して、自分の意志で何かを望むことが、どうして人に否定できるだろう。

 

 例1から例4までの話に戻る。心の性を元にして異性愛/同性愛を判断するならば、性的指向の相手の性別も、やはり心の性を考えなければならない。すると、組み合わせは途端に増えていく。自分の性自認が身体の性と違うことに無自覚な場合、相手もそうであるかもしれない場合、その愛の形が異性愛なのか同性愛なのか、はたまた両性愛全性愛や無性愛なのか、どこまでもわからなくなっていく。人は誰しもが潜在的トランスジェンダーである。我々は潜在的トランスジェンダーであり、同性愛者であり、異性愛者であり、あるいは、あなたがもっと新しいものを見つける。

こまごまとした幾つかのこと

 長い間心身が優れなかったんだけど、ここ数日でかなり回復してきた。なにかしら楽しみな予定を作ると俄然元気になるので、好きなバンド(LOSTAGE)のライブのチケットを買ったり、映画観に行く約束したり、という方策で急速チャージを完了。元気になりすぎて調子に乗ってホラー映画を立て続けに三本観たら普通に気持ち悪くなった。ごはん食べながらシャイニング観たの初めてなんだけど、ごはんと合わなさすぎる

 

 よくFPSで一緒にチーム組む韓国人のフレンドが最近「おたんこなす」という言葉をどこかで覚えてきたらしくて、私に向かって散々「おたんこなす!」と言いまくってくる。でも言われてるタイミング的に「nice」とか「well play」の文脈っぽいから意味知らないんじゃないかと思う。実際に私がAIM下手で文句言われてる可能性もあるから訂正していいのかどうか分からない。あと訂正の仕方がわからない。

 

 映画「レディ・プレイヤー1」を観た。面白すぎて脳が過熱して不眠症になって徹夜して感想や考察を書き続けて推敲して、またレディ・プレイヤー1のこと考えて、としてるうちに眠気がどんどん消え去っていって、を繰り返してて若干健康を害するくらい面白かった。これ最近は「ブレードランナー2049」観たときにも同じ状態になって、なんというのかな、私自身の人生経験にすごく似通うところを見出して「あっ、これ、わかる」ってなったり「この映画を読み解く鍵が俺の人生の中にある」みたいな感覚になったりして興奮が収まらない感じになって、今も興奮してるので文章がぐちゃぐちゃです。いつもぐちゃぐちゃだった。ネタバレしたくないし恥ずかしいしで、暫くはとめどなく溢れてくる考えと言葉を全部自分の内に秘めておく。うまく言えないんだけど、「個」が「個」であることや「現在」が「現在」であることの絶対性みたいなのが強すぎて、一回性の体験のもつ大事なものを担保するために、未見の人にマジで何も伝えたくない。レディ・プレイヤー1ブレードランナー2049に関しては公開から二年以上経ってから考えまとめてちゃんと書きたい。

 

 映画「トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン」が隠れた名作らしくてめっちゃ観たい。なかなか売ってないしレンタルもない。

 

 アニメ「メガロボクス」を観た。おもしれー。EDのNakamuraEmi「かかってこいよ」って曲が好き。

 

 TwitterShing02の「緑黄色人種」を勧められて購入。気に入って最近よく聴いてる。

 

 トム・ジョーンズ「拳闘士の休息」を読み返している。落伍者の返り咲きとか敗者復活戦とか社会不適合者のヤケクソ行動が本当に好きで(それは俺自身が落伍者であり復活する者であり社会のフレームを蹴っ飛ばし続ける者であることが手伝って)、「拳闘士の休息」は何度読んでも飽きない。

 

 Mnogoznaalを聴き始めた。

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 コミ共和国のヒップホップ。トラックが暗くて好き

必殺技

「一緒に考えた必殺技、まだ覚えてる?」
 詩織が懐かしむように話す。季節は冬。場所は新宿の居酒屋の片隅。私たちの通っていた中高一貫の女子校の、初めての小規模な同窓会。その席で、詩織は饒舌に私を困らせる。
「必殺技?なにそれ」
「えー。たくさん作ったじゃん。私より広瀬のほうがマジだったじゃん」
詩織がテーブルの上を見回す。詩織は私の下の名前を呼んだことがない。
「料理もうだいたい片付いちゃったね。誰かなんか頼む?」
周囲にいる元級友たちがそれを受けて騒ぎながら店員を呼ぶ。詩織と級友たちが注文している間、私は黙り込んでいる。手帳を取り出して余白に書き込む。”必殺技”。なんだか笑えてくる。手帳を鞄にしまい込む。注文を終えた詩織が戻ってくる。
「広瀬は今彼氏いんの?」
「ううん。いない」
「お。フリーいいね」
「気ままだよ。おすすめ。詩織は?」
「私?私はノット・ア・フリーです」
「お~?聞き捨てならんな~」
そんなことを話しながら私は全然別のことを考えている。数年前のこと。中学生の頃、高校生の頃、詩織と一緒に考えていた幾つもの設定を。

 

 中学に入って初めて親にケータイを持たされた。特にケータイが欲しいと頼んだ記憶は無い。それは同学年のみんなも同じらしかった。家から離れた学校へ電車通学する娘に、心配だから、と親が渡してきたケータイは、すぐに私たちのおもちゃになる。まず最初に同じクラスのみんなと連絡先を交換しあう。その時のケータイは、赤外線通信でデータを送り会う仕様だった。みんなそれぞれ持っているケータイの機種によって通信できる場所が違うので、「私のケータイどこに赤外線ついてんの?」「ここじゃね?この黒いカバーのとこ」と探すところから連絡先の交換は始まる。クラスのみんなの名前を覚えるのと一緒に、みんなのケータイのどこに赤外線通信部があるのかを覚えた。そして他愛ないメールを頻繁に送り合うようになった。その時に詩織と出会った。
 詩織は変な子だった。入学してすぐに教室にマンガを持ってきていたし、休み時間に椅子じゃなく机の上に座るし、お弁当を持参するか学食で昼食を取るようにと生活指導を受けているのに、学校の近くのコンビニで買ったサンドイッチやざるそばをいつも持ち込んでいた。最初は、そんな子は詩織だけだったのに、次第にみんなが詩織の真似をし始めた。詩織しか読んでいなかった週刊少年ジャンプは、中学1年生の夏休み前になると、クラスの半分くらいが読むようになっていた。私も同じだった。

 昼休み、私が詩織の席の横にしゃがみ込んで、詩織が貸してくれたマンガを読んでいると、ふいにケータイが鳴った。見ると、詩織からのメールが届いている。
「真横にいるじゃん?なんでメール?」
私は詩織を見上げる。教室の一番左。一番後ろ。窓側。カーテンにもたれかかるようにして椅子にもたれている詩織が、ケータイから顔を上げて私を見る。
「まだ広瀬って私のプロフ見てないよね?と思って。メールでリンク送った」
「プロフ?」
メールの中の青色に変色しているURLを見る。カーソルキーを下に押して、OKを押す。ページが開く。
「ページの途中にゲスブ……ゲストブックってのあるから入ってよ。自由に書いてって。掲示板みたいなやつね」
「ふーん?」
そこには今私が読んでいた漫画のキャラのファン(みんなたぶん同じクラスの誰かなんだろうというのはなんとなく分かるペンネームだった)や、ジャニーズのファンがひしめきあっていた。みんなが思い思いの書き込みをしていた。
「へえ。詩織が管理人?してんの?」
「まあね。ゲスブ、三つに別れてるから」
どうやら、ゲストブックには、漫画の話専用、アイドルや芸能人の話専用、と、もうひとつ、なんの話をしているのか分からない掲示板があるようだった。
「この三つめの、オリ、って書いてあんのなに?」
オリキャラ
 詩織が短くそう言ったときにチャイムが鳴った。五時限目の授業が始まるまでの間、私は、オリキャラの話専用のゲストブック、というのを、なんだか分からないままに眺めていた。

 秋になった。私と詩織は頻繁にオリキャラを作ったり、オリキャラの設定を足したりして遊んでいた。詩織のプロフのゲストブックに、夏休みの間、毎日のように通い詰めていた私は、すっかりオリキャラというものを理解した。
 自分で作るオリジナルのキャラクター。姿形、年齢、どんな過去があって、どんな性格で……。詩織が考えたオリキャラの設定を元に、私が絵を描いたり、私が考えたオリキャラの小説を詩織が書いたりして、私たちは過ごした。特に詩織が好きなのは異能バトル系のキャラだった。超能力や魔法が使えたり妖怪の血を引いていたりする、少年漫画みたいなキャラクターが詩織は大好きだった。当然のように彼らオリキャラには必殺技があった。詩織がオリキャラを考える。私がオリキャラに似合う必殺技を考える。オリキャラのライバルになるキャラを私が作り出す。詩織がライバルの必殺技を考える。
「実は幽真と風斗は兄弟なんだよね、それで必殺技も似てて……」
詩織が深夜にゲストブックに書き込む。まだゲストブックに書いてまとめる前の、オリキャラの設定相談なんかをするときには互いにメールをした。メールは何通も続いた。Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:…………

 

「必殺技、覚えてる?ほら広瀬の考えたやつ……太陽の光を集めて~、焼く」
「あはは、覚えてない~」
笑いながら私と詩織は同窓会の幹事に三千円を渡す。本当は全部覚えてる。でもそれを言い出せなかった。覚えてると言うのが恥ずかしかった。詩織は私の下の名前を覚えているのだろうか?ふと気になる。一度も下の名前で呼ばれたことがない。聞いてみようか。私の下の名前、覚えてる?と。それも言い出せなかった。
「広瀬~今度映画行こうぜ~」
「いいよ。なに観るの?」
「マーベルのやつ。もしくはDC。いつでもどっちかやってるし」
「今はアメコミ好きなんだ?」
「彼氏がアメコミすげー持ってんだよね」
「そうなんだ」
なぜだか寂しくなった。いま、詩織の隣に座って漫画を読んでいるのは、私じゃなくて、その彼氏なんだ。

 

 JR新宿駅まで一緒に歩いて、そこで解散した。改札を通って手を振りながら消えていく詩織を見送ったあと、私は西武新宿駅へと歩き出し、途中で思いついて大型書店に立ち寄る。店員にたずねる。
「アメコミの棚ってどこにありますか?」
ございます、少々おまちください、と店員が案内してくれるのを待つ間、私はほとんど泣きそうだった。

最近観た映画の感想

・「ゴッホ 最期の手紙」

 動く油絵のアニメーション映画。細かいことは公式サイトで。

ゴッホ~最期の手紙~

 これ映像表現が売りで内容はハートフルものだと思って観に行ったら結構はらはらしてスリルあって……びっくりした。てっきり美術モノだしアート系の映画であって娯楽性は薄いだろう、と思ってたんですよ。娯楽性の方向でしっかり面白かった。

 主人公の性格が頼もしいというか……アドベンチャーゲームめいた高揚感がある。

 

・「オール・アイズ・オン・ミー」

 ヒップホップMC、2PACの生涯を追う伝記映画。彼の幼少期から始まり、25歳で何者かに射殺されるまでの物語。

 チャラい!!トゥパックがチャラい!!硬派でダーティな曲の歌詞しか私が把握してなかったせいで私の中に合ったトゥパック像は「真面目で武闘派」なヒップホップの先鋒だったのが、実際の彼の売れ線だった曲をバンバン流す、実際に彼が調子のってる部分を描写していく、この映画によって「本当のトゥパックは常に真面目で良い子ぶってるわけじゃなくてスターダム駆け抜けるハッピーな青年の顔もあるよ」とイメージがガラッと変わった。良い意味で救いを感じる。

 

・「オリエント急行殺人事件

 古典なのに原作一度も読んだことなかったおかげで新鮮な気持ちで観れた。面白かったのでもっと早く原作読むか旧いほうの映画を観とけばよかった。

 

・「ブレードランナー2049」

 何も知らずに観ることが体験性の担保に大切な映画なのでネタバレを控える。とても良かった。

 

・「ベイビー・ドライバー

 鮮烈な演出~!(エドガー・ライト作品に対していつも同じことを言ってる気がする)

 青春~!

 語彙~!

 

・「ナミヤ雑貨店の奇蹟

  ダークホース。入りの長回しで商店街を抜けていくカットが良かった。ハートフルSFミステリ。

 

・「ガールズ&パンツァー最終章 第一話」

 ガルパンはキャラの特徴や仕草を説明せずに細かく描写するところが良い。実写映画で例えるなら整列するシーンの前にキャスト一人一人に個別の演技指導をして「画一的にならないように個別のダラけ感を出して」と釘差した後みたいな。立ち居振る舞いに抜け感がある。

 

・「祈りの幕が下りる時

 新参者シリーズ最終章。原作読んだとき気にならなかったのに映画で観ると「あの人とばっちりで死んでない?」みたいなのが際立つのはなぜ。

 

・「キングスマン ゴールデンサークル」

 アルファジェルによる蘇生って聖杯的なモチーフでもあるのかなと思った。正しき選択をしたものが真に蘇生後の生に辿り着き、誤ったものは死ぬ=聖杯による蘇生が叶わなくなる、という。キングスマンのコードネームが円卓の騎士だし。

 前作の教会でのアクションシーンも、今作の最後のアクションシーンもそうなんだけど、キングスマンシリーズは「作中最もホットなアクションが、倫理的/心情的なブレーキで観客が完全にノることができない」構造をわざと作り出してる。痛快なアクションじゃなくて、悲しみや憂いや恐怖を帯びたアクションになっている。そこが良いところだと私は思う。暴力的、過激なようでいて、その表現への抵抗や嫌悪を抱いてもらうことを大事にしている。

 

・「バーフバリ 王の凱旋」

 面白かった。前評判が良過ぎたので過度な期待をして劇場へ足を運んだせいか、「普通の映画じゃん」と鑑賞中に思ってしまったが、冷静になってみると普通ではない。王道ではある。王の映画だし。

 冒険活劇、英雄譚、青春、戦争、アクション、歌、踊り、と色々なものをギュッと詰め込んだお得パックみたいになってて、そのお得感が前作を超えている。足りないのはスリル、感情の機微、苦しみや痛みなど。なんというか全体的にマイルドかつスムーズで、ぎこちない部分が全然ない。エンドロールも1秒しかない。エンドロールが1秒しかない映画ってすごいな。

 

・「勝手にふるえてろ

 痛快コメディ、として銘打たれてるし、前半は確かにそうなんですよ。笑いそうになる表現が次々にやってくる。それが途中で豹変して映画の様相が変わる。

 映画「フェーム」での現実の延長線上のミュージカルというものがあって。何かというと、それは現実の路上で、本当に、急に音楽かけてダンスを始めてミュージカルをやってしまう、というもので、当然ながら渋滞を巻き起こしてしまって人から怒られて乱闘騒ぎになったりして幕を閉じる、というものなんです。現実の生活の中で本当に踊り出してしまう、現実がそれを邪魔扱いして退けていく。"現実を現実が剥がしていく"。そういう描写だからこそ、「フェーム」の登場人物たちのフラストレーションの解放と、また解放しきれない青春の葛藤をにじませるものになっている。

 これ最近ある映画でオマージュされたんですよね。「ラ・ラ・ランド」です。ララランドの場合は、現実の路上ではなくて、主人公の空想上でのミュージカルであるために、誰からもそれを邪魔扱いされることはないし、いってしまえば”現実が虚構を剥がさない”。はなから、作中世界での整合性を取る必要が無い設定で虚構のミュージカルをやっている。

 で、「勝手にふるえてろ」の話に戻ります。この作品だと、"虚構で虚構を剥がしてく"んですよ。これがすごい。虚構は虚構であって現実ではなかったことを表現するために、虚構を用いてくる。現実の風景の中に"浮いた"、"痛い"主人公が歩いていって、浮いたまま種明かしをしてくる。演出バリバリすごかったんですよ。マジですごかった。制作班はこれ新規に独創的に思いついたんだろうか。それとも何かしらの作品からのインスピレーションを受けて作ったんだろうか。気になって仕方ない。とても面白かった。

 

 

最後に架空の映画のトレーラーを見つけたので紹介します。これ好き。

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「ポプテピピック」のアニメ化、ではなくて、「ポプテピピックのコミュニケーションツールとしての側面」のアニメ化なのではないか

 ポプテピピックのアニメを観た。幾つか考えることができたので書き起こす。

 

 このアニメは「再放送」と称して、10分間放送したのと同じ内容を直後に再び繰り返す、という形をとっている。この「再放送」が、実は1回目と2回目では完全に同じ内容ではなくて、少しずつ変化がある、というのが、ポプテピピックというアニメを特殊な位置付けにしている。

 どういうことか、というと、まず1回目の放送で、視聴者にポプテピピックのアニメのテンプレートを提示し、2回目の放送でそこに変化を加える、という形式を取ることで、「2回目の放送を観ている際の視聴者に、どこに変化があるのかを身構えさせる」という視聴体験を作り上げているのだ。それは大喜利のようなものでもあるし、ラジオの読者投稿企画のようでもある。ある一定の変化しない枠を用意して、その中での振る舞いを細かく変化させることの面白さ、を作り上げている。

 

 ひとつ例を出す。その昔、深夜の馬鹿力というラジオ番組で、ラジオ青春アニメ劇場『燃えろ!光』という企画があった。音声ドラマ作品の連続企画で、とある高校を舞台に、主人公の光くんを伊集院光が演じ、ヒロインのかおりを声優の野村真弓さんが演じるというものである。第1話の内容はオーソドックスで、光くんが野球部をやめたあと、かおりにそれを咎められる中で、実は肘を痛めているためもう投げられないから辞めたと告白し、それを内緒にしてくれよなと念を押したあと、気持ちの整理がついて、新しく他の部活を始めることを決意する、という流れになる。

 さてここで問題が発生する。なんと番組には予算がなく、声優さんへ払うギャラが足りないため、第2話以降の収録はできないというのだ。大変だ!

 そこでこんな解決策が出てくる。「声優さんに新録を頼めないなら、第1話のかおりの音声だけ繰り返し第2話以降も流せばいいじゃないか」

 

 ?

 

 というわけで『燃えろ!光』のヒロインかおりは、毎話毎話、まったく同じセリフしか話さないキャラになってしまったのだ。そうなると、伊集院光演じる光くんのセリフしか変えることができない。つまり、光くんのセリフのネタを読者からのオハガキとして募集して、それが上手いこと前話の内容から次の話へと繋がるように作ることになった。

 当然ながら伊集院光もリスナーも、かおりのセリフが変わらないことを前提として番組制作とハガキ投稿を続けていく。あるテンプレートの中での限られた変化でドラマを、面白さを創り出していった。

 

 ポプテピピックの話に戻る。『燃えろ!光』で作られたリスナーへの視聴体験と、ポプテピピックのアニメで作られた視聴者への視聴体験は、かなり構造が似ているんじゃないか?まず雛形になる1回目の放送を提示し、2回目でその中に少しずつ変化を加えていく形であることを了解させ、その上での視聴する姿勢を設けさせる。ハガキ投稿によって内容に干渉できこそしないものの、ポプテピピックは「テンプレートと、その改変」を主軸に置いている。

 

 時は昔、ポプテピピックの原作者、大川ぶくぶ氏が出版した東方projectの同人誌にて描いた1コマの「ほあようごぁいまーしゅ!」というセリフがあった。これがインターネット上で話題になり、長いことその1コマの画像を貼るのがおはようの挨拶の代わりのようになったり、2chでは毎日のようにAA化されたほあようごぁいまーしゅが貼られ、Twitterでは今でいうLINEスタンプの代わりのような使われ方をした時期があった。バズったものが定型句のように機能する現象である。この定型句化したほあようごぁいまーしゅ!は、徐々に画像やAAをコラージュされて変化し、セリフを変化させたもの、セリフをそのままにキャラを変えたもの、画風を真似て新しく描かれたもの、と改変されていった。

 そして時は経ち、ポプテピピックのLINEスタンプが公式から発売される。その売れ行きと普及率は凄まじく、常にLINEスタンプストアランキングにポプテピピックが顔を覗かせる状態が続いた。ポプテピピックスタンプは使いやすいものとして一定数の人々に受容された。ほあようごぁいまーしゅ!と同じく、ポプテピピックという漫画はバズり、定型句として使われ、LINEスタンプになることで名実共に「コミュニケーションツール化」したのである。

 

 何か似ていないだろうか?コミュニケーションツールとしてのポプテピピックと、アニメ化されたポプテピピックは、同じような構造と性質をしている。

 

 ポプテピピックのアニメは、テンプレートを示し、それを自ら「再放送」にてコラージュする。声優が変わり、内容が変わり、少しずつの変化を楽しむものとしての2回目の放送がある。ほあようごぁいまーしゅ!がテンプレートとなり、人々にコラージュされ、少しずつ変化していったように。ポプテピピックの漫画の連載が始まり、ある程度認知されるようになった際にもやはり、ほあよう(略)と似た現象が起きた。バズり、定型句になり、コラージュされていったのだ。ポプテピピックはLINEスタンプが発売される以前、既にLINEスタンプのようにコミュニケーションツールになっていた。

 

 このような受容のされ方、つまり、ポプテピピックという作品だけでなく、その周辺状況も踏まえての映像作品化のように私は思う。当記事のタイトルを繰り返す。

ポプテピピック」のアニメ化ではなくて、「ポプテピピックのコミュニケーションツールとしての側面」のアニメ化なのではないか。

 

 未だ放送途中であるため、答えではなく問いの段階にとどまるものとする。

 

少女終末旅行の最終話の一話前の話をしたい

 2018年1月12日。気温はマイナス3℃。これは日記かもしれないし、誰かに宛てた手紙かもしれない。今日はweb漫画として連載されていた「少女終末旅行」の最終話の更新日だった。最終話(第42話)の1話前、第41話にて爆発的に膨れ上がるモノローグの熱量が凄まじかったので、いったい最終話はどうなってしまうのだろう?と期待と不安のようなものを抱えて読み始めた。さて、最終話の感想は一旦端に置いて、第41話の話をしたい。その41話でのモノローグの熱量が凄いと書いたけれど、実際には熱量と呼ぶより、もっと厳密な表現があるように私は思う。書きながらその疑団を拭えなくなったので話を巻き戻す。

 

 少女終末旅行の第41話のモノローグが帯びているもの、それは喩えるならば、よく使われる表現にするならば、ロウソクが燃え尽きる前に一瞬強く輝くこと、「灯滅せんとして光を増す」のような、最期の瞬きのような熱だった。私は何かを考えるときに無数に例え話を作り始めるのを趣味にしているので幾つか追加して持ちだしてみよう。ちなみに無数の例え話を次々と持ち出す理由は何かというと、より細かく正確なニュアンスを表現したいからだ。この細かく正確なニュアンスというのを求めるのは、物事の在り様をつぶさに観察したいがためでもあるが、自分がその在り様に感じたもの、言葉になる前の感情を追いかけ続けているからでもある。その向きが強いときもあるし、そうでないときもある。何かに夢中になるとき、さして夢中でもない時にも、厳密にはどうなのか?を際限なく考え続けている。それが結果として何を語るにも多くの言葉と表現を必要とする。多くの言葉と表現が必要とされ、幾度も重ねられ、角度を変え、迂遠になり、冗長になり、いったい何を考えていたのかぼやけることで、そこに結ばれる像は逆にくっきりとしてくる。そのくっきりとした像が私にとってだけくっきりとしているのではないかという恐れがそこに付きまとい、私はそれを他者にとっても確認のできるくっきりとした像に落とし込むためにピントを調整し続ける。

 やたらと長い脱線のようでいて実はこの一連の文章は少女終末旅行の第41話のことを考える補助線になっている。なっているといいが。ひたすら判読性が低い。

 第41話のモノローグが帯びているものを喩える段に戻る。灯滅せんとして光を増す、以外にそれを喩えるなら。それは沈思黙考するとき、瞑想するときに、かえって周囲の環境音などが細かく聞き取れるようなものだ。それは寒い日に人と手をつないだとき、その人の手を温いと感じるような。それは強い恐れを前にしたとき、かえって湧き立つ勇気のような。それは鉛筆で紙を一枚黒く塗りつぶして遊んだ子供がその紙に消しゴムで引っかき傷のごとく細い線を描くような。それは祈るときに祈り以外の不純な気持ちに気付いてしまうような。それは人が亡くなったあと親しかった人たちの記憶の中で故人が息づいていることに語らいの中で触れて喪が明けるような。それは死んでいく人の胸に耳を当ててかすかな心音が消えていくのを感じるときに未だ生きていることを強く感じるような。それは部屋に二人きりでいるときに相手の立てる物音にふいに注意が向いてその音を聞き取り続けるような。それは今まで壁に飾っていたカレンダーを片付けるときになってカレンダーに施されていた意匠に気付くような。それは知っていたはずなのにまるで知らないみたいに過ごしていたような。

 そんなものだ。それは熱じゃない。光じゃない。音じゃない。それは本当にただ失われていく過程だ。それはどんな形をしていたエネルギーも無へと近づき続ける時間、その時間を無限に細分化したときに生まれる、理論上の永遠に対して感じる感傷だ。いつか、この宇宙が冷えて小さくなって消えていくときみたいに、宇宙に内包されるすべては様々な形で親である宇宙の未来の模倣をして先立っていく子供たちであることを知ったとき、子供たちの垣根が壊れて消えて、すべては同じく等しく同じ胎に居るのを、まるで悟ったみたいな気持ちで理解したときの、主観的な時間が現実を無視して恐ろしい分解能を発揮して自分では到底追いきれない未来に手を駆ける無限への感動と畏怖だ。それは本当にただそうなんだ。それは理性と知識が正しく統合して行われた理解の帰結として、最後に待っている、人間の最後の思考だ。人は終わりを考える。その考えにも終わりがある。

 

 さて、そういうものを帯びていると私が感じた少女終末旅行の第41話のモノローグの話を始めよう。この物語の二人の主人公、チトとユーリは旅をしてきた。核の冬のようなポスト・アポカリプスの、文明が死に絶えてしまったあとの時代を、生き残りの少女ふたりは一緒に旅をしてきた。ひたすら文明の残滓の建造物を、上へ、上へと昇っていく旅を。その過程で、乗っていた車や、持っていた本と日記、わずかな食糧と燃料を失ってきた。ふたりは今、塔の中にいて、その階段を昇る。そして遂にランタンの灯が消える。暗闇の中で二人は手をつなぐ。(先ほどモノローグの帯びるものとして一例に出した、寒い日に人と手をつないだとき、というのは、比喩ではなく直喩になる)。手をつないだままチトとユーリは塔の階段を昇り続ける。途中で手袋を外して直に手を繋ぎなおす。(この、直に手を繋いだ瞬間から会話が途絶え、チトのモノローグが膨れ上がっていく)。

 

 闇の中ふたりで階段を昇る。いま二人には二人以外の何もない。つなぎあった手を互いに握り返す。そしてチトのモノローグだったはずの、漫画のコマの中の、つないだ手から出ている吹き出しに、ユーリの台詞が混じる。二人はいま一体化し、ひとつの存在のように伝わりあう。チトのモノローグは語る。「私たちはもう…ひとつの生き物になってしまった」

 そしてチトのモノローグは続く。初めから本当にそうだったとすれば、私の手、ユーリの手、空気、建物、空、触れ合っている世界のすべてが、私たちそのものみたいだと。

 

 いま世界の皮膚は融けている。ふたりしか居ない世界で、ふたりは同じ世界の、同じ空の、同じ建物の、同じ空気の、同じ闇の中、手を繋いで階段をのぼる。その中でチトの主観的な世界の輪郭はどんどんぼやけていく。自分とユーリの間の隔絶は消えていった。同じように他の全ても消えていく。闇を表す黒いページの中に、「私たちそのものみたいだ」というモノローグと、チトとユーリの姿だけが描かれる。描かれたふたりの姿に、他のすべて、描かれなくなった世界が詰まっている。

 

 そして唐突に光が差して闇は晴れる。モノローグは止み、ふたりは再び声を出す。光の中、塔の最後の階段を前に、ふたりは立ち止まり、お互いの手を強く握る。ここが第41話の引きになる。この光の中の引きが、今度は読者をふたりへと一体化させる。チトとユーリの感じる不安、どこまでも果てしなく続くかに見えた闇の中の階段の先にあるものへの好奇心を、読者に強く共有させる。最終話を前にして、最終話の一話前である第41話は強い演出効果を持った引きで幕を閉じる。

 

 私はここまで続きの気になる「最終話の一話前」に触れたことで、いたく感動した。率直に言うと、簡潔に言うと、「少女終末旅行の最終話の一話前の第41話すごい好き」。それだけのことを、できるだけそこに感じた心の本当の動きを追いたくて、この記事を書いた。最終話の感想はあえて書かない。第41話を読んだあと、最終話を読まなくても構わないほど(語弊がある)、第41話は素晴らしかった。

 

 追伸。蛇足になるが、最終話である第42話の、42という数字は、SF作品「銀河ヒッチハイク・ガイド」に登場するフレーズ、”生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え”に対して示される不可解な解答、「42」と同じである。また、チトとユーリという二人の主人公の命名元は、人類初の有人宇宙飛行を成し遂げた宇宙船、ボストーク1号の乗組員、ユーリイ・ガガーリンと、バックアップクルーである、ゲルマン・チトフから取られているのではないか、と思われる。この追伸による補足が何になるのかを私は知らない。もしかしたら、これから少女終末旅行を読む人にとって、その知識がまるで作品の一部のようになるのかもしれない。今日の気温がマイナス3℃だったことは、私にとってまるで少女終末旅行の最終話という作品の一部のようだった。ともすれば私も作品の一部かもしれない。まだ何もかも読み終えていない、あなたですら、その何かの続きや終わりの一部になりうるのかもしれない。